父の太平洋戦記「ああ死の島テニアン」

Copy Right wmagnolia  27/04/2013

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発刊のことば

 「テニアン」この言葉は私にとって格別の意味を持っています。この言葉を聞く度に私の心は疼き、胸がギリギリと締め付けられるのです。テニアンは玉砕の島なのです。そして私はテニアンの生き残り、いや死に損ないなのです。戦後数十年というもの、私はこの「テニアン」という言葉にさいなまれ、悪夢にうなされる夜が続きました。今でも目を閉じれば地獄のようなあの戦場が、亡き戦友のあの顔が浮かんでくるのです。生還してからの私の人生の半分はテニアンに占められていました。テニアンは常に私と共にありました。
 私のテニアンに対する思いは家族にさえ理解出来るものではなく、生き残った数少ない仲間と密かに涙して語り合うのが常でした。そんな私がこの拙い記録を残そうと思い立ったのは偏に戦友の慰霊の為であります。もとより、この記録は私にとって苦痛そのものであります。書くことさえ五臓をかきむしられる思いがします。しかし、紙切れ一枚で引き出され、親兄弟の見知らぬ遥かな戦場で果て、紙切れ一枚で帰郷を余儀なくされた戦友達の願いや思い、そして彼等の死に様を思うと、知り得る限りを伝えることが私に残された務めであるのかも知れません。
 戦後五十年を迎えようとしている今、若々しかった皇軍の兵士達も晩年を迎えた今、あの戦争の記憶も共に消えゆこうとしています。かつての玉砕の島々には豪奢なホテルが立ち並び、目映い白砂には若者達の矯声が満ちています。知っているのでしょうか、彼らの足元には彼らの父が、叔父が、あるいは祖父が埋もれていることを。知って頂きたいのです。是非知って頂きたいのです。あなた達のために戦い、死んで行った人達のことを。
 私の余命も残り少なくなった今、この身に刻まれた戦争の記憶を思い出し、当時の玉砕戦の様子、テニアン島での兵士の死に様を御遺族の皆様にお伝えするとともに、後世の人、特に一人でも多くの若い人達に読んで頂き、平和への糧にして頂きたいという熱い想いが私にペンを執らせました。
 玉砕の島、テニアンで僅かに生き残った戦友と御遺族の方々が誰かしら毎年テニアンに慰霊に行っております。去年も数十名が、五十回忌にあたる今年も全国から八十八名の方々が僧侶と一緒に供養に行って参りました。慰霊、それは戦友であった我々生存者の勤めと思っております。これからも毎年、体の動く限り、我々は慰霊に参ります。いや、例え死の床に臥したとしても心は遥か戦友の眠る彼の島に赴く事でしょう。生ある限り。
 去年、念願であった慰霊碑をテニアンに建てることが出来ました。この慰霊碑はテニアン市長、ジェィムス=メンディオラ氏とテニアン在住の平野欣也氏のお力添え及び大勢の日本の慰霊団の方々のご助成とご芳志を頂き、また、現地のマニエル様、島袋三郎様、笠利様各氏のお手伝いを受け、内地の御影石にて建てることが出来ました。
 八月二日の玉砕の命日に、九州大分県中津市よりおいでいただきました大家司令官のお嬢さんである衣子様の除幕に続き、御僧侶による読経、御婦人達の御詠歌、戦死者を弔う「平和観音讃仰和讃」の参加者全員にて詠唱、開眼供養と四十九回忌の法要を無事に執り行うことができました。永久に西の方、日本の方向を向いて立ち続けるでしょう。テニアンの島の方々の暖かい見守りの中で。
 忘れないで欲しいのです、我々が語れなくなっても。あの島で祖国に殉じた多くの若者がいたことを。その叫びを、その悲しみを。


 死の島テニアン、玉砕の島は波涛の彼方なり、なれど汝は我が裡にあり。

 拙い私の記録を一人でも多くの方々に読んで頂けますよう祈りを込めて。


 ※ 文中、戦友や戦死者に対しまして礼を失しないように実名を使わせていただきましたことをお許し頂きたいと思います。


テニアン島概略(野田利勝氏の資料に拠る)

 日本から南南東の方角、遥か二千四百キロの洋上にテニアンはある。
 現在では旅客機で三時間もあれば着いてしまうこの島も、五十年前の遅い船足では数日を要した。北にはサイパン島、南にはロタ島、グァム島があり、今では観光・新婚旅行のメッカとなっている。風光明媚なこれらの島々には瀟洒なホテルが立ち並び、日本からの若者であふれている。
 テニアンは珊瑚礁の隆起によって出来た島であることから島全体がゴツゴツした硬い石灰岩で覆われ、雨水や海触によって出来た洞窟が無数に口を開けている。
 南北に約二十キロ、東西に約十キロのサイパン島の約半分の面積の小島は周囲を珊瑚礁に囲まれており、エメラルドグリーンの礁海に縁どられたその姿は他のマリアナ海域の他の島々と共にまばゆいばかりの景観を呈している。
 テニアン島は第一次大戦の結果、敗戦国のドイツから割譲され、大正三年に日本の委任統治領となった。
 この地でヤシ園を経営する企業が進出したが、害虫による被害が原因で失敗を重ね、昭和五年一月、南洋興発会社がテニアンに精糖工場を建設した。
 これに伴って全島が砂糖キビ畑として開墾され、ヤシ園経営当時に植えられたヤシの木は、ヤシの木に付く害虫が砂糖キビにも害を及ぼすという理由ですべて伐採され、樹木は開墾のためにほとんど無く、ゆるやかな起伏の続く島全体が砂糖キビ畑という景観を呈し、昭和十年には第二工場が建設され、南洋興発会社の精糖規模は台湾に次いで東洋二位となり、「海の満鉄」と呼称されるに及んだ。
 昭和十六年には戸数三千四百七十二戸を数え、一万五千三百六名の日本人、朝鮮人三十六名、チャモロ族三十六名、カナカ族二名がこの島に住んでいた。大部分は砂糖栽培農家で、カロリナス農区、ソンソン農区、ハゴイ農区というように区分された各農区に三百戸から四百戸の農家が散在した。
 島の南西にはテニアン港があり、支庁桟橋と呼ばれる桟橋には主としてサイパン島を往復する小船が接岸し、港に面したソンソンの町には床屋、米屋、写真館、易者の他、内地の田舎町程度に五十軒ばかりの商家が散在し、数軒のカフェーも色を添えた。
 この町は南洋興発に依存する、いわば規模の小さな企業城下町とでも言うべき町であり、工場で働く労働者は社宅を与えられ、六千人の従業員と家族が生活した。
 のどかで平和な島、しかも美しいテニアン島は南洋開拓の意気に燃える若者の夢を叶えるに充分な場所だった。また、諸々の事情で内地を後にせざるを得なかった者にも糧を与えることが出来た。
 南洋の明るい陽光の中、宝石のように輝くマリアナの島々は人々の希望を載せてたゆたっていた。しかし、この天国のような美しい島々が、やがて地獄の戦場に化そうとは誰が予想しえただろうか。
 日本の大陸政策は欧米列強の反感を買い、一触即発の危機にあった。既に政治の実権を握り、権力を掌握していた日本軍部はこれらの南洋諸島を南洋作戦の要、本土防衛の盾として位置付け、来るべき対米戦に備えて着々と戦備を整えつつあった。
 サイパン島とは異なり、平地の多いテニアン島は飛行場の建設に適し、浮沈空母として海軍航空隊の基地となり、マリアナの守りの要でもあった。
 昭和十六年十二月、連合艦隊はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争の幕は切って落とされた。緒戦の破竹の連勝も半年で終わり、翌十七年のミッドウエー海戦を境に守勢に立たされた日本軍は、昭和十八年七月にはマリアナ、パラオ、ダバオ等の基地航空部隊を統括すべく第一航空艦隊が編成され、テニアンに司令部が置かれた。同年九月には本土防衛を念頭においた絶対国防圏が策定され、サイパン、テニアン、グァム等のマリアナ海域はその東端にあり、第一航空艦隊の千七百五十機の戦闘機は絶対国防圏の主力として期待された。
 この地域への米軍の進出は先のこととされていたが、昭和十八年十一月、ギルバート諸島のマキン、タラワ両島が玉砕し、同十九年二月にはトラック島に延べ四百五十機に及ぶ空襲があり、基地航空機の全てと食糧、燃料の大部分、艦船五十隻が撃沈あるいは損傷を受けるという空前の損失を被り、米軍の次の目標がマリアナ諸島であることは明かであり、同十九年二月、その前兆とも言える初空襲がハゴイ諸島にあった。
 昭和十九年二月、陸軍はこの方面に展開する三万の将兵に新たに五万を増援し、計八万名を第三十一軍として編成し、マリアナ防衛に任じた。同月下旬、サイパンを目指す二十九師団を乗せた輸送船は途中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けたがこの師団の一部が後にテニアン島へ配備される緒方敬志大佐隷下の部隊である。
 海軍は南雲忠一中将を司令長官とする中部太平洋艦隊を編成、司令部はサイパン島に置かれ、三十一軍、第一航空艦隊共にその指揮下に入ったが、この編成が終わったのは米軍がサイパンに上陸する僅か三カ月前の十九年三月四日という慌ただしさであった。
 テニアン島守備を任務とする海軍第五十六警備隊もこの慌ただしさの中に編成された。約千二百名で編成された五十六警備隊も最後の突撃に参加できたのは約四百名、生還できたのは唯二人のみである。
 テニアン島は軍民合わせて万余の人々が命を落とした玉砕の島である。


第一部 玉砕、崩れ去った防波堤

   徴集令

 昭和十八年、私は故郷を離れ、横須賀にいた。横須賀に姉の家があり、其処から通ってトラックの運転手をしていた。横須賀の武山海兵団へ砂利や砂を運ぶのが仕事だった。実家では、寡婦であった母が僅かな田畑を耕し、三人の弟妹と暮らしていた。
 四月になって実家から知らせがあった。私に赤紙が来たのだ。私は一度実家に戻り、横須賀にあった海兵団に入団した。其処で海兵としての初年兵教育を受ける事になった。訓練はきつかった。一番きつかったのはカッターボートの訓練で、何組かで競走させられ、ビリになった組は兵舎を二周させられてから食事にありつけるのだが、大きな兵舎を二周もすると食事の時間は無くなって、空き腹を抱えて寝なくてはならなかった。吊床訓練、これは凄じい猛訓練で、特に私のような身長の無い者は片方のフックは何とか掛けられたが、もう片方のフックが問題で何度も跳び上がってやっと掛けることが出来た。この時ほど身長の無い者の悲しさを味わった事は無かった。海兵団ではあまりバッタ棒のお世話にはならなくて済んだ。間もなく海兵の基本訓練も終え、上陸(上海陸戦隊)行きの命令が下った。同期の中に歌手の霧島昇も居たような記憶もあるが、定かでは無い。冷たい雨の中、合羽を着て海兵団を出発した。

   上海

 昭和十八年春、海軍の基本訓練を受けた私は軍艦「春日」での艦務実習を終えると直ちに船にて和歌山沖を通り、呉軍港に入った。其処で巨大な軍艦を見た。これがなんと戦艦「大和」なのだ。「大和」の横腹には大きな穴が開いていた。引率の下仕官の話では「大和」は南方戦線にて米潜水艦の魚雷攻撃を七本も受けても悠々と日本へ帰還し、只今、呉のドックにて修理中なのだと言う。なんと日本一、いや世界一の軍艦は大したものだと皆で自慢もし、驚きもした。
 軍港内には特殊潜行艇も多数航行していた。その異様さに馴染む間もなく呉港も出航し、九州は佐世保軍港に入港したところで少し休養を取り、いよいよ船は玄海灘の波頭を乗り越え、上海へと向かう。
 出航して広い海原へ出ると船が大きくローリングを始め、数時間経つと皆が船酔気味で私も気分が悪くなってきた。その筈で初年兵の我々は海上経験も少なく、ましてや名にしおう玄海の荒波である。ここで「初年兵とは云え、自分は日本海軍の兵隊なのだ。ましてやこの船には船上勤務の古参兵も居ることだし、船酔の面などして居れるか」と気を引き締め、ふらつく足で食事当番もし、一応艦船勤務の格好だけは付けていた。
 洋上三日ほどで黄浦河の河口へ入る。この河の大きさたるや向こう岸が見えないほどで、その川中を無数のジャンクが行き来する様、内地では見られぬ風景である。やがて船は上海港に着岸、とたんに無数の小舟が群がってきて中国人が皆手を出しているではないか。これは日本から積んで来て不要になった木箱などを欲しがっているとのこと、これにも少々驚いた。
 やがて上陸。引率の下仕官数名と我々初年兵約三百名は衣嚢を担ぎ車で任地である上海陸戦隊へ到着する。陸戦隊本部に入ると本部両側の棟には剣道、柔道の段持ちや級持ちが大勢おり、これは大変な部隊に来てしまったと同年兵と顔を見合わせた。明日からさっそく陸戦隊の陸上訓練なのだ。きつい訓練になりそうだ。
 上海での初めての一夜が明けると引率の下仕官はいなくなり、新しく教育係の下仕官が決まった。私の班には年輩の下仕官が班長となり、長野県か山梨県の応召の色の白いおとなしそうな人で、善行章を二本も付けた海軍一等兵曹であり、自分は郷里に妻や子もおる等と話してくれた。
 さて陸戦隊の実戦演習が始まる。陸軍と同じ実弾射撃訓練等、連日猛訓練が続いた。訓練も辛かったが苛めも辛かった。私は背丈が百六十センチと海軍でも小兵な方なので毎朝、他の班の上等水兵や兵長など二、三年兵に呼び止められ、
「俺がおまえの背丈を伸ばしてやる」と言いながら私の足を大きな軍靴で踏みつけ、両手で私のあごを何度も持ち上げると、「どうした、少しは背丈が伸びたか」と言う。「はい、伸びたような気がします。有り難うございました。」と礼を言うと別の古参兵がそばから、「伸びたような気がしますとは何を言うか、こっちへ来い!」と言う。また同じ事をされ、礼を言わされる。これが何日か続いた。
 何ヵ月か経って転属を命ぜられた。中国の九江の近くであったと記憶しているが上海陸戦隊の自動車学校への転属であった。そこでは自動車練習の助手を命ぜられたが、これには訳があり、私は横須賀海兵団に入団する以前、警視庁の運転免許試験に合格していたので転属となったと思われる。ここの教班長の温情で教班助手として主にパンク修理を軍務としていたため、毎晩のように車庫前に整列させられ、バッタ打ち、海軍精神注入棒のお世話になるのは他の兵の半分ぐらいで済み、大変有り難かったが、それでもそれを知った内務班の古参兵連中が意地悪をして私一人を呼び出し、バッタ棒を十二回程喰ったこともあり、尻が赤く腫れ上がって上を向いて寝られぬ夜も度々であった。
 古参兵と云えばこのような事もあった。車をわざと溝に落とし、我々、兵隊の数名に引き揚げさせるのだが、我々丈夫な兵でも辛いのに、この中に盲腸の手術後退院間もない兵がいて、へっぴり腰でがんばっていたが、その苦しそうな顔は今でも目に浮かぶ。
 現在では単なる苛め、嫌がらせとしか思えないこのような内務班での仕打ちも後の戦場での、私にとってはテニアン島での苛烈な戦闘を耐え抜く精神力を培う糧となったのは確かな事であり、かつ団体行動における共同責任の重要さを叩き込まれたのもまた事実である。
 中国では良い思い出も有った。「蘇州夜曲」に歌われる彼の地にも何度か演習に行ったが、なるほど良い景観の街であったと思い出される。また、そうこうしている内に突然マラリヤというやっかいな病気に患り、時に四十度も熱が出て上海の海軍病院に入院することになったが、その間、歌手の東海林太郎や女優の宮城千賀子等が見舞いに来られ、無聊を慰められたのも思い出である。
 やがて冬が来る頃には病もほぼ癒え、退院の許可も出て、駆逐艦「峯風」に乗せられ、東支那海方面へ米潜水艦を追いつつ九州は佐世保軍港に入港、同年兵同士が同じ汽車に乗り、三日がかりで横須賀海兵団に帰団した。

   再び横須賀へ

 横須賀海兵団に帰団して小休止を与えられたのも束の間、直ちに「小川隊」に配属を命ぜられた。「小川隊」は砲術隊と陸戦隊の混成部隊であり、隊長は小川和吉といい、海軍砲術学校出身の特務大尉であった。私とは親子程の差の年令で静岡県出身の穏和な風貌の方であった。小川隊長の自宅は横須賀の共済会病院の上の階段を高く昇ったところにある古びた借家でここに夫人と住んでいたが、私は何度も海軍の支給品を届けに行ったものだった。
 この「小川隊」には甲板下士官に茨城県出身の若い鈴木重正一等兵曹、彼は砲術学校高等科練習生出身である。先任伍長に青森市出身の中村春一上曹、先任伍長とは下士官兵の中でも最先任を言う。この方は勇敢な方で先の支那事変に於ける抗州湾敵前上陸の際、もやい綱をかついで真っ先に海に飛込み、岸の杭に船を固定して友軍の上陸を助けたが、自分も足に敵弾を受け重傷を負ったという武勇伝の持ち主である。
 海軍第五十六警備隊の編成も終了した昭和十九年二月下旬のある朝、小川隊全員に突然の非常呼集がかかった。整列した我々を前に木製の台に上がった小川隊長は「これより我が隊は南方のある島に向かって出発する。私は一足先に飛行機で行って居る。隊員は元気で船で来るように。」と命令口調ではなく全員を諭すような話ぶりで台を降りられた。
 昨晩は隊の全員に外泊が許され、今朝か明朝には出発と誰もが解っていたが、出発が急に早まったため、隊長の訓辞に間に合わず遅れる者も出た。彼らが元気の良い甲板下士の鈴木重正一曹にビンタを頂戴したのはいわずもがなである。

   別れ

 小川隊には私のような独身の兵ばかりでなく、多くの妻帯者の兵も居た。出発の朝、横須賀海兵団の正門を出、波止場の手前より乗船となったが、そこには様々な別れが見られた。見送る事が出来たそれぞれの家族とそれぞれの兵士。新婚の渡辺兵曹などは新妻との別れ、おそらく今生の別れとなる想いに夫人は泣き崩れていたという。見送る者の無い者もそれぞれの郷里、それぞれの家族に想いを馳せながらも皇国の兵士としての衿持を保ちつつ。
 我々を乗せた三隻の輸送船は周囲を駆潜艇やキャッチャーボートに守られ横須賀港を出航した。

   テニアン上陸

 昭和十九年三月上旬と想われる頃、サイパンに上陸していた我々小川隊にテニアン島の海岸要塞砲の築城が下命された。先ず、先発隊として私の四トントラック一台をダイハツに乗せ、兵員二十四、五名が同乗し、サイパン島西側の船着き場を出航した。航海の途上、無礼講と言うことでダイハツの両側から紐で吊るして冷やしたビール瓶を開け、唄も出るなどして息抜きをした。引率の上官も笑って見ているばかりだった。この時の上官の頭にはどんな構想があったのか我々には知る由もなかった。二時間以上掛かってようやくテニアン港に入った。
 船の上から見るテニアンの町並みは内地のそれとは一寸異なるように見える。これが南洋と言うものか、横須賀海兵団の厳しい軍律と上海時代のバッタ棒制裁のことなど忘れたようにソンソンの町並を見つめていた。
 間もなく上陸となった。ソンソン町の役場が当座の宿舎となり、そこで一夜を明かした。夜が開け初めると整然と並んだ町並みの方々から人の声が聞こえ出し、賑やかになってきた。この時は海軍航空隊の地上部隊と設営隊が急ピッチで飛行場作りをしていたのだ。勿論、着いたばかりの我々兵には解る訳もなく、その時は天国にでも来たような気分でいたものだった。暫くすると後続部隊が続々と上陸してきた。設営隊と工作隊が到着すると、日本ヤシの住吉神社の下に長い兵舎が二棟出来上がり、そこが我が小川隊の基地となった。

   運転員

 小川隊の運転員であった私と刑部の二人は我々の基地から波止場へ、あるいは各陣地へと毎日往復するようになった。我々のトラックは実に色々なものを運んだ。先ず食料である。何十人分を運ばなければならない。大きな木の樽に米飯を詰め、もう一つの樽には味噌汁を満たし、蓋の代わりにバナナの葉を乗せて埃が入らないようにして各隊に配給して歩いた。副食には福神漬と梅干し、三月、四月頃にはカツオが各隊に一本づつ配られた。味噌汁が問題だった。各隊に着く迄にこぼれてしまい、半分位になってしまうのだ。何度情け無く思ったことか。各隊の兵はもっと情け無かっただろうが。この頃は米軍の潜水艦攻撃により海上輸送が脅かされ、物資の入荷も途絶えがちであった。食料も先細りになり、量も少なくなって来ていた。にも拘らず、各隊の兵は文句も言わずに陣地の構築に精を出していた。
 大砲も運ぼうとしたが、これは無理だった。十五糎海岸砲の砲身は七トンもあり、四トントラックでは壊されてしまう。仕方がないのでコロで何日も掛けて砲台となる洞窟まで運んだ。我々運転員は砲の据え付けまでは手を貸さず、本来の運転員の任務に戻った。
 兵員輸送も我々の任務だった。ある日、武装した兵員を満載してハゴイ方面に向かっていた。昭和十九年六月に入った頃であったと思う。第二飛行場付近を通過しようとしていた時、突然敵のグラマンが我々のトラックを目掛けてバリバリと機銃を撃ちながら突っ込んで来た。私はアクセルを目一杯踏み、猛スピードでジグザグに逃げた。グラマンが飛び去って一旦車を止め、誰かやられはしなかったかとトラックの荷台を見た。なんと、そこには誰もいなかった。辺りを見渡すと其処此処の岩陰に身を隠しているではないか。トラックの下を覗くとそこにも二、三の兵が隠れている。グラマンが突っ込むや早く、走っているトラックから飛び降り、逃げてしまっていたのだ。なんと逃げ足の早いことか、全員無事であった。
 その頃になると小川隊では各砲台の砲の据え付け作業も終り、最後の仕上げを急いでいた。隊員が総出でこれに掛かり、本部はガランとしていた。
 食料の補給も乏しくなって来ていたが、内地から運んできた乾燥したカボチャや甘藷薯の切り干し等を保管していた倉庫が米軍機の爆撃に遭い、切り干しから出ていたアルコールに引火して焼けてしまい、それに輪を掛けてしまった。泣き面に蜂であった。

   砲台員

 七月に入ると米軍機の度重なる爆撃でテニアンの道路は穴ボコだらけになり、車での通行は無理な状態になっていた。やむなく第五十六警備隊・野戦病院の西方のバナナの林にトラックを隠し、ペペノゴル小川砲台に行き、砲台の補助員となった。上官に弾丸の雷管や信管の取付方法を教わり、米艦船の接近に備えることとなった。
 我々運転員には些細な役得もあった。毎日トラックで島中を歩いていたので、パイナップルやパパイア等を仕入れてはトラックの道具箱に入れておき、程良く熟したところで食べるのである。この味はまた例によって格別であった。ところがバナナの林に隠して置いたトラックが米軍機に発見されてしまい、機銃掃射を喰らって運転席を貫通した銃弾がトラックのジョイントをも貫通し、走行不能になってしまったのだ。トラックを壊されては運転員も不要になり、本業の陸戦隊員に戻った。

   海軍第五十六警備隊

 私が編入された海軍第五十六警備隊は、昭和十九年、大家悟一海軍大佐を司令として下士官兵千三百十六名、将校三十八名で編成された。その内訳は、横須賀の砲術学校を出た兵及び下士官と私共上海陸戦隊より編入された約百名の兵である。
 昭和十九年二月、アン式十五糎砲六門と十二糎砲六門を船積みして、クサイ島を目的地として日本を出航した。しかしクサイ島は既に米軍の攻撃を受けており、予定を変更してテニアン島に上陸することになった。
 上陸本部を最初はソンソン町の中央に置いたが、後にカロリナス登り口の二本ヤシの近くに置いた。砲台は二本ヤシに柴田中尉指揮する部隊及び十五糎砲三門を、ペペノゴルには小川隊長指揮する十五糎砲三門と戦闘指揮所を、沼田少尉指揮する十二糎砲三門をテニアン北方サイパンの対岸へ、及川中尉指揮する十二糎砲三門をテニアンの西海岸へ布陣して、米艦船の接近に備えた。
 この五十六警備隊に海軍兵学校出の小杉敬三という青年士官がいた。若干二十四歳にして大家司令の副司令代理を勤め、まさに片腕とも言うべき存在であった。陸上警備科長、航海長、監視隊長、衛兵司令、第二分隊長をも兼ねていた事でも彼の優秀さが知れよう。彼は第二次ソロモン海戦の折り、軍艦「睦月」に乗り組んで抜群の活躍をした経歴を持つ歴戦の勇士であった。五十六警備隊にとっても貴重な存在であったし、米軍が目睫に迫りつつあったテニアンに於いて、指揮官として最大の信頼を寄せられていた。その彼も大家司令と運命をともにしたらしい。最後の突撃の時に司令と行動をともにした将校が六、七名いたが、その中におられたのかもしれない。

   テニアン玉砕直前の司令と佐竹中尉の言葉

 今だ玉砕五十二年経た今日でも思い出される元テニアン島海軍第五十六警備隊司令、大家悟一大佐の祖国日本に最後に打った電文「祖国の安泰と平和を祈る」と我々一兵卆にも今日は皆一兵卆として死ぬのだとの言葉と玉砕突撃の直前カロリナスの最後の司令部洞窟を出る時の佐竹海軍中尉の我々後績の兵に我々は玉砕は決してしないとの言葉、昔の楠木正成の七生報国の心境を最後の際に声に出したのを思い出すのです。
 返す返すも惜しい方々、軍人を失い残念なり。

   小川隊海岸要塞砲台移動構築始まる

 昭和十九年、三月の中旬と記憶するが、サイパンより船積みされた十五糎海岸砲は海岸波止場より荷揚げされ、まず最初に小川隊長の指揮所となるペペノゴルへ移送されたが、これが簡単ではなかった。
 砲身だけでも七トンもある重い大きな荷物は私の運転する四トントラックに悲鳴を上げさせた。三本の電柱を立ててチェィンブロックを取り付け、砲身を吊り上げておき、そこにトラックをバックで入れて固定し、静かに砲身を降ろし始めると板のスプリングが延び始めた。何と弱いスプリングか、全兵員が見守る中スプリングが折れようとしている。
 ペペノゴルへの道路が悪いため、これではトラック輸送は無理との結論が出て砲身を降ろした。急いで波止場や南洋興発精糖会社より厚い道板や丸いコロ棒を集め、コロに砲身を乗せてロープで前を引く兵、後ろからテコ棒で押す兵とに分かれて人海戦術で運ぶことになったのだが、丸一日かけても一門の砲を要塞の洞窟まで運ぶことは出来なかった。
 何日も掛けて三門の砲を運び終わると、早速洞窟内を整備して引き上げ、砲鞍の据えつけ等を急ピッチで終えると砲身の上に屋根を掛ける。屋根の鉄骨は砂糖キビ運搬用のトロッコのレールを使用し、その上にコンクリートを打ち、更に土を厚めに乗せてそこに甘薯等を植え付け、銃眼には砲身が見えないように擬装をする。砲台が完成して迎撃体制も整い、米艦隊のテニアン港に来襲するのを今か今かと待った。
 このペペノゴルの砲台が完成したのは、五月末か六月始め頃かと思われる。この三門の砲には、横須賀砲術専門学校出身の砲長、射兵等多勢の荒武者士官がいた。一番砲は山本武夫上曹、二番砲は杉本春雄上曹、三番砲は知念興上曹他、下士官と兵が六十名以上配置についていた。
 二本ヤシ柴田砲台も隊長の柴田中尉以下、砲術学校出身の先任下士である吉野悌二上曹、藤田松治郎一曹、片平三郎一曹、鈴木重正一曹、大岡信一一曹、何後一曹、下川一曹等、優秀な砲員指揮官が米艦の来るのを待ち構えていた。

   沼田少尉のこと

 昭和十九年七月始め頃。警備隊司令部の上層部に情報が入っていたらしく、米大機動部隊が近付いており、雲行きが怪しくなってきた頃のことである。私はトラックに武装した兵隊を満載し、助手台の裏にはドラム缶を二本乗せて移動する途中だった。助手席には沼田少尉が注意深く空や地上を監視しながら乗っていた。旧第一飛行場の南側の直線の下り道路を走っていると、荷台の兵隊から突然、「ワーッ」と大声が挙がった。ハッと我に返ると、道路の左側へ車の前輪が落ちているではないか。
 急ブレーキを掛けたため、トラックの荷台に乗っていた兵は全員が下のサトウキビ畑に放り出され、ドラム缶二本も後からころがり落ちていく始末だ。沼田少尉は前面のウィンドウガラスの破片で頬の肉の一部が飛び散り、出血多量だったためタオル布で止血をしなければならなかった。『これはえらい事をしてしまった。』
 砂糖黍の段々畑をトラックにロープを掛けて全員で引き、百五十米くらい引いたところで道路に戻して小川隊本部まで辿り着いた。
 沼田少尉が小川隊長に事故の報告をし、医務室へ手当を受けに行った。ところが桑原兵曹長が本部より出て来て、日本刀を抜きざま、「前へ出ろッ、ぶった切るぞ。」と大声で言うのです。私も観念して身構えると、日本刀をかざしながら、
「沼田少尉の言葉では、お前の目は開いたまま前方を見ていたという事だ。」大声で続けて、
「日本海軍で目を開いたまま眠って車を運転したのは、お前が初めてだ。よくやった。」と言いながら日本刀を鞘に収めて、
「命令だ、只今より小川隊全兵員は半日休養とする。これは小川隊長の命令である。」と告げられ唖然としておりました。そして私に、
「隊長室に来い。」と言うので隊長室に入りますと果物やら甘い物やら盛ってあり、
「果物でも何でも、好きなものを食べなさい。」と言われた。「食べろ」と言われても将校と同室では喉を通る筈もなく、只困っていたが、
「班に戻れ。」と命ぜられ、班に戻った所でホッと安堵のため息が出た。
 我々運転手は全員が二晩寝ずの運転で、兵員や弾丸の運搬をしていたところで、半分眠ったまま運転をしていたのでした。
 この事故当時の沼田少尉の指示、自分の負傷にもかかわらず本部に帰隊してからの少尉の報告、桑原兵曹長の父親のような振る舞い、敵来航近しにもかかわらず隊員を思いやる隊長・小川特務大尉の心尽くしを今更ながらに思い出される。
 旧日本軍人で階級の上に「特務」のつく人は上級学校を出てなくても、兵より努力して下士官へ、更に将校へと進んだ人です。玉砕がなければテニアンの要塞砲の築城日誌をまとめ、日本へ帰り、砲術学校の副校長となるべき将校であったと言われておりました。
 小川大尉にしろ、沼田少尉にしろ、この当時より「玉砕」の二文字が頭にあったものと、今にして考えさせられます。惜しまれる優秀な将兵を失い、返す返すも残念に存じている自決し損ないの一敗残兵でございます。
 自決し損なった者として、生ある限り何か世の中に尽くして死にたいと心に決めている者で御座います。

   ペペノゴル小川砲台の最期

 三門の砲を据えたペペノゴル小川砲台の上の山中に戦闘指揮所があり、約三十糎ほどのコンクリートに覆われた指揮所の中には小川隊長と先任伍長の中村春一上曹が常にいた。この指揮所より来る小川隊長の命令を、各砲台員全員が米艦を目の前にして今か今かと待っていた。何日も何日も火を使わず、食器の音も出さないようにして、生米をかじり乾パンを食べ、少しの水だけで我慢強く待ったのだった。
 昭和十九年七月二十四日、サイパンよりテニアン港正面に向かって静かに前進を始めた米駆逐艦「ノルマンスコット」がテニアン港の正面を向き様子を伺う。米駆逐艦を目の前にして小川隊長の伝声管と地上電話の声は、「まだ待て、もう少し待て。」と伝えていた。「ノーマン」がテニアン港正面を向いたところ、隊長より大声で「全砲発射用意。撃てーッ。」ペペノゴル小川砲台の三門と二本ヤシ柴田砲台の三門が一斉に火を吹き、雷鳴のような砲声が轟く。最初の一発づつが「ノーマン」の機関部と艦橋部に命中した。暫くして「米駆逐艦ノーマン、轟沈。」と砲台の奥にいる我々にも伝わってくる。歓声が上がる。「バンザーイ。バンザーイ。」挟み撃ちされた「ノーマン」は間もなく海に沈む。
 次に巡洋艦「コロラド」がテニアン港正面を向いた。米艦に砲台の位置を知られてからの小川砲台は、柴田砲台と呼応して、連続発射し、合計二十二発を命中させた。巡洋艦「コロラド」は火災を起こし、相当数の死者と重傷者を出し、後退した。
 しかし、歓びも束の間、次に何が起こるかは砲台員全員が知っていた。これに対する米軍の報復は筆舌に尽くしがたい激烈なものであった。
 サイパンより三隻の戦艦と巡洋艦、駆逐艦が急行し、テニアンの砲台を砲撃した。小川砲台二番砲の銃眼より米艦の砲弾が飛び込み、砲台内で友軍の火薬に引火した。大火災が起こり、火柱が渦を巻いて火薬が飛び散り、戦死者多数を出した。
 夕刻頃、砲長の杉本兵曹は戦死者の中より起きあがり、両眼が見えないようだったが私の声が分かるらしく、
手探りで近づいてきた。体に付着した火薬を取り除き、手当を始めると、
「手がもげているぞ、」との声によく見直すと、杉本兵曹の右の手首より先がないではないか。出血もなく、時計だけが動いていた。杉本兵曹は自分のことより、
「大丈夫か、」としっかりとした声で聞く。何と気丈な砲長かと感嘆させられた。側にいた神山兵曹に連絡し、野戦病院に運ぶ手配をして他の戦死者、荒井文衛門兵曹他の方々を砲台の南側に埋葬し、夜に入ると陸戦隊の準備をして小川隊長の後に続いた。

   高木兵曹長、重傷を負う

 昭和十九年七月二十五日、昼のことであった。サイパンからテニアンに向けての猛烈な一斉射撃を浴びる中、高木兵曹長は腹部に大砲の破片を受け、盲貫銃創を負った。苦しい息の下、「誰か殺してくれー。」と言いながら野戦病院に運ばれた。この病院は、ソンソンのテニアン港にぽっかりと口を開けた自然の洞窟を利用して設けられたものであったが、病院とは名ばかりで、缶詰の箱を並べて上に板を乗せ、その上にゴザを敷いただけのものであった。負傷兵を百五十名以上収容していたが、まだ続々と運び込まれていた。しかし、この病院がそのまま彼等の墓所になろうとは誰が想像しただろうか。
 翌日までに米軍機の空爆によってこの洞窟は破壊され、逃げようもない負傷兵は全員が岩石と土砂の下敷きになってしまったのだ。後になって、我々は高木兵曹長の戦死をそこに確認した。

   並木兵曹長の自決

 昭和十九年七月、二十五日か二十六日の夜であったと思う。テニアンの日本軍の陣地は米軍の打ち上げる照明弾で白昼の如く照らし出されていた。
 既に陥落していたサイパンのアギーガンから砲列を敷いて打ち出す百数十門の十四糎長距離砲の砲弾は、煌々と照らし出された日本軍の陣地に正確に着弾した。我が小川隊もまた百雷の如き弾雨の中にあった。
 多くの戦死者を出した我々小川隊の残存兵はマルポー水源地付近に集結していた。米上陸軍に夜襲を掛けると言う話であった。そこには陸軍の部隊も居たようだった。彼等は丸い弾倉の重機関銃を持っていた。
 我々残存兵の中に並木兵曹長の姿もあった。しかし、此処が彼の死処となってしまった。雨あられと降る砲弾の一発が並木兵曹長の近くで炸裂し、砲弾の破片は彼の腰部と足を砕いてしまったのだ。
 並木兵曹長は歩行もできず、夜であったために負傷の状態も良く分からなかった。皆が集まり、小川隊長も近くにいたように記憶している。小川隊はこれより敵上陸軍に突撃を行うため、西海岸方面へ前進すべく準備中であった。並木兵曹長は「隊のみんなと一緒に行動はできない。自分は皆の足手まといにはなれぬ。自決をする。」と言い、ピストルの弾の確認をしてもらって、西の方、日本の方を向かせてもらい、「隊長、お世話になりました。皆さん先に行きます。」と言うが早いか、こめかみに銃口を突きつけて引き金を引いた。私は並木兵曹長の壮烈な戦死の一部始終を目撃していた。しかし、彼を埋葬する暇もなくそこを発ったため、今だに誰が彼の遺体を埋葬したか分からない。

   突撃

 米軍の猛攻の前に指揮系統もずたずたになってしまった。我々は自分で自分を指揮し、一日一日を生きるのみであった。米上陸地点には近寄れず、陸軍部隊も散り散りになり、散発的にゲリラ戦を戦うのみであった。
 小川隊は一日の内に準士官を二人も失ってしまった。隊長の心中を思いやる兵は、私だけでは無かったと思う。しかし、そんな想いも束の間、我々は米上陸軍に向かって遮二無二突撃して行った。上陸地点に近付こうとするが、真昼のような照明弾の明るさとサイパンから連続発射してくる重砲の着弾に阻まれ、散り散りになった我々には上官の命令も最早届かなかった。それでも我々は少しでも米軍に近付こうとしていた。
 米軍は日本軍の倍の厚さの装甲を持つ戦車を先頭に、火炎放射機とバズーカ砲等の重火器の猛射を我々に浴びせ掛け、じりじりと我々に迫って来る。戦友は次々と戦死し、我々は為す術も無く後退していった。生き残った者はカロリナスまで後退を続け、各地の洞窟に潜んで夜襲の機会を伺った。我々と行を共にした陸軍部隊も同じ運命を辿ったようだった。
 かろうじて生き残った私は、七月二十七日から二十九日までカロリナス付近の洞窟に潜み、玉砕の日となった三十一日には最後の司令部洞窟付近にいた。
 小川隊長とは何処で別れたか当時は分からなかったが、後で伝え聞いたところによると、カロリナス台上のある壕に隊の本部を置いたらしい。

   沼田砲台残存兵の自決

 刑部孔久一機(横須賀出航当時)とは横須賀にて警備隊編成当時、小川隊の自動車運転員として私と二人で仲良くトラックの運転をしていた。十九年の一月から二月末までは南方戦線行きの準備で軍務に励む毎日を送っていた。
 我々が乗船した「さんとす丸」は横須賀港を出港し、硫黄島付近で敵潜水艦に発見され、魚雷攻撃を受けたが、右に左に魚雷をかわし、無事にサイパン島に到着する事が出来た。
 サイパンに上陸して荷物を一旦陸揚げしたのち、一時上層部の命令を待っていた。待つこと暫くして小川隊はテニアン島の要塞砲の築城を命ぜられ、直ちにダイハツでテニアン島に向かい、海岸砲の設置が開始された。その時から刑部一機はサイパン島の見えるテニアン北部に築城された沼田少尉指揮する十二糎砲台に配属となった。
 その後、米軍の猛烈な砲撃により沼田砲台は壊滅し、仲の良かった同年兵の刑部とは別れ分れになってしまうのだが、意外やカロリナス最後の司令部近くで偶然再会することになったのである。しかし、そこは沼田残存兵の最期となる場所であった。再会の場が同時に別離の場になろうとは。時に昭和十九年七月三十一日昼近くであった。
 カロリナス南端に第五十六警備隊の最後の司令部となった洞窟がある。それより西へ続く八十米位の小高く盛り上がったリーフの南側に平野兵曹を長として下士官、兵十数名の沼田隊の残存兵が集まっていた。平野兵曹の「我々は只今より全員自決する。」との命令に従い、内地の方角を向いて一列に並び、自決の準備をした。私が一番手前で、同じ運転員の山梨の刑部上水が私と並んでいた。皆で最期の水を飲み廻し、小銃の安全装置を外し、靴を脱ぎ、足の指を引き金に掛け、銃口を喉仏に当て、『これから自分は死ぬのだ』と覚悟を決めていた。内地の家族のことを思い出そうとしていた、想い出が走馬燈のように廻り、不思議と落ち着かない。その時、誰かが私の体を揺り動かした。ハッとして振り向くと隣の刑部が、「相良、平野兵曹が呼んでいるぞ。」と言っている。あらためて平野兵曹の方を見ると、
「おまえは、司令部を知っているだろう。司令部に沼田少尉がいるから呼んで来い、一緒に自決する。」と何度も言われた。何度か呼んだらしい。その時私は夢中であったため、平野兵曹の呼ぶ声が全く耳に入らなかったようである。
 小銃を持ったまま夢中で駆け出した私の耳に、「早く大きくなってお父さんの敵を討ってくれ。」と叫びにも似た声が聞こえた。平野兵曹の声だった。日本に残してきた息子の名前を呼びながら何度も繰り返していた。平野兵曹の声を背中で聞きながら、米戦車に見つからないように司令部に向かって駆けていた。洞窟内の司令部までは二百メートル弱だった。
 司令部に着き、入り口を覗くと、「だれかッ」と誰何の声、
「沼田少尉を呼びに参りました。今、皆が自決をしますッ」と早口に告げると、奥に座っていた年輩の将校が落ち着いた声で
「お前は運転員だな。中へ入れ。」と言われ、中に入ると、アッと驚いた。内地で二度ほど車でお送りしたことのある大家司令ではないか。司令は
「今、内地へ最後の無電を打って、全員で杯をしたところだ。お前もやれ。」と言われ、白鶴のビンを持って私に酒をついでくださるのだ。そして、
「今日は皆一等兵なのだ。今から皆で米軍に突撃するのだ。」と言われる。
 言われて良く見ると、大家司令はじめ各将校達が、「今日は皆一等兵なのだ」という司令の言葉に従って全員が自分の階級章を切り取っていた。私が司令部に着いたその時点では六、七名が司令の前におり、この方達は皆将校なのだということだけは判っていた。
 沼田少尉に平野兵曹の伝言を伝えると、
「これから司令と米軍に突っ込むのだ。直ちに自決を止めさせよ。」と言われた。また急いで司令部洞窟を出、平野兵曹達の所へ近づいた。しかし、そこに私を待つ者はなかった。自決の用意をしていた沼田残存兵は待ちきれずに自決をしてしまっていた。刑部一人、銃口が右に曲がり、死にきれずにいた。右目と耳の間に貫通して「ガボッ、ガボッ、」と音を出して出血しており、心臓はまだ動いているようであったが今はどうすることも出来なかった。間もなく絶命するであろう刑部に、「俺もすぐ後から行くから。」と言い、急ぎ司令達の後を追った。
 行く先々、防風林に沿って相当数の戦死者が倒れていた。米戦車から打ち出す機関銃と砲で、前方のサトウキビが三四十センチの所から切れている中を匍匐前進で進み、小銃の弾丸五発全てを撃ち尽くし、米戦車に肉薄したが、どうにも前進は出来なかった。夢中でこの時は気が付かなかったが、顔がヌルヌルするので手で頭を探ると天辺に指がめり込んだ。頭骨を砕かれたらしい。もうすこし下に外れていたら即死であった。
 司令達はどの方面かも分からず、進むも引くも出来ず、戦死者の中に埋もれていた。夕刻までそうしていたが、異常にのどが渇くのを覚え、夜になるのを待って司令部洞窟へ戻り、ドラム缶の水を飲んだ。早く自決しなければと心は急いていたが、水を飲んで少し気が落ち着くと、『刑部も死んだ。平野兵曹も死んだ。大家司令以下四百名の戦友もみんな死んだ。誰も帰ってこない。自分一人生きているのか。死なねばならぬ。明日は自決しよう。』と、腰の手榴弾を握りしめていた。その後、高野(現姓森岡)と出会うことになり、二人で一日又一日と生きることになる。
 後で生き残った高野氏の話によりますと、大家司令はカロリナスへ退いた民間人、特に婦人や子供を大変心配しておられた様子で、「民間人は助けたい。」と何度も口に出しておられたということです。そして「我が守備隊は、七月三十一日午後零時零五分、総員総突撃を行ふ。祖国の安泰と平和を祈る。」と日本へ電文を打った後、司令が先頭に立ち、付近の生存者約四百名と米戦車群に最後の突撃を敢行、全滅してしまったということです。
 それにしても、大家司令の「死ぬときは士官も兵もない。皆一兵卒として死ぬのだ。」との粛然たる覚悟と、この期に及んでの私たち兵に対する思いやり。このように立派な将校達を失ってしまったのは、日本にとって返す返すも残念に思われる。ひたすら御冥福をお祈り申し上げるのみ。

   佐藤隊の奮戦

 ◯佐藤隊の編成

 隊     長  海軍特務大尉   佐藤幸助
 副     長    海軍少尉   新宅数馬
 分  隊  士   海軍兵曹長   池田
    〃      海軍兵曹長   山本
    〃      海軍兵曹長   屋代
 専 任 伍 長  海軍上等兵曹   坂田

 総隊員約七十名強にて兵員の内容は下士官多く一般兵が少なく、応召の年配の兵も多勢居り、日本内地にては極度に男性が少ない。この佐藤特務大尉にしては人員も極端に少なく、内地にて実戦に使える兵の教育にも間に合わず前線に送り出した様子にて、佐藤隊も御多分にもれず少ない兵員にて南方方面のチモール島へ向けて船足を速めて居た時すでに遅く、太平洋には米潜水艦の出没攻撃があり、途中より日本上層部の命によりマリアナ方面航空隊の増強に伴い対空砲の増設の必要に迫られ、第八十二防空隊田中吉大郎中尉以下二相良名、二十五糎隊空機銃二十四門、第八十三防空隊田中明喜中尉以下二五○名、七十五糎高角砲六門の装備が三月初旬に第一飛行場付近ハゴイ地区に配備された。
 四月にテニアン第一飛行場に到着した佐藤隊は、七十五糎高角砲四門を持つ佐藤隊長と田中隊長との間に自然に共同作戦を取る様になり、高射機関銃の田中隊と高角砲の佐藤隊が急ピッチにて飛行場付近の防備陣地を構築した。
 元に話は戻るが、鹿島山丸には佐藤隊と菊地隊と大岩隊が乗船して居たが佐藤隊と菊地隊がテニアンへ下船、大岩隊のみトラック島へ向かう佐藤隊の高角砲の一門の部品故障にてサイパンより池田兵曹長と弓田兵曹が内地へ持ち帰った。
 佐藤隊は東ハゴイ第一飛行場東側の隊本部防空壕にて米軍機の攻撃を受け佐藤隊長と新宅小隊長が本部にて壮烈な戦死を遂げた。残った分隊士の指揮にて米機に高角砲と高射二連装機銃にて応戦、米グラマンと正面より撃ち合い、数機を落としたのだ。この戦いにて佐藤隊のほとんどの隊員が戦死し、残った椎名新一先任兵長が二、三名の兵を勇気付けてカロリナスへ後退し、青柳喜三郎上水他一名位しか見当たらず、海軍第五十六警備隊の残存兵も七月三十一日正午の総員突撃にて二、三名を残して玉砕したのだ。
 佐藤幸助特務大尉は家族妻トクと娘カツ子を内地に残し、家督を継いだ恒春氏夫妻も五十回忌の現地慰霊祭に参り一心に供養の真を捧げて参りました。又、立派な戦死をカロリナスにて遂げられました青柳喜三郎上等水兵も内地に三才の子供と生後間もない乳のみ児を残し、未亡人となったアサ様も数回程テニアン慰霊団に参加し、亡夫のあれ程飲みたかった水を上げ、香を手向けてお参りをされました。御遺族方の戦後のご苦労の程は筆者にはとても書けません。涙だけが先に落ち書けませんので御許し下さい。テニアン島の全戦死者の御冥福を祈ります。

第二部 敗残

   玉砕

 陸軍の内、五十連隊は酷寒の満州遼陽よりの派兵、百三十五連隊にしても寒冷の地から常夏の島に移されたのは良いとしても、広大な戦場に馴れた者が四方を海に囲まれた小さな島を戦闘の場所とするには戸惑いも多かっただろう。我々海軍は常に狭い艦船内での戦闘を想定しており、テニアン島はまさに浮沈空母として頼もしい限りであった。しかし玉砕という過酷な運命はそのような互いの特性の違いも容赦無く飲込んでいく。
 昭和十九年七月三十一日午後、テニアン島カロリナス台南端に於いて海軍警備隊大家司令以下の突撃。続いて陸軍残存兵の突撃。同年八月一日から三日にかけて海軍航空隊角田中将以下の敵戦車群への突撃。
 組織だった日本軍の反攻はこれを最後とし、日本軍はテニアン島から消滅した。
 私は司令部洞窟付近にいた海軍の中尉位の士官の指揮下に入り、大家司令を先頭に米戦車に突撃した。玉砕突撃した約四百名中、不幸にして生き残った者二名のみ。


   高野少年兵

 玉砕突撃にも生き残ってしまった私は司令部洞窟に戻り、中にあったドラム缶の水を腹一杯飲み、少し落ち着くと、『大した手柄も立てずに、このまま死ぬのは残念』と思い、もう少し様子を見ることにした。元の司令部の兵員が便所に使っていた少し下の横穴に、大人三人がやっと居られるようなでこぼこの横穴を見つけ入り込んだ。
 数日経ったある日の深夜、その便所の周りを人間がちょろちょろと何かを探している様子。米軍にしては動きが少し違うようだ。自決用の手榴弾の安全栓を抜き、発火させるため打ちつけようとしてから、日本軍の合い言葉、「必勝、」と言うと、その者はハッとしながら、「神念、」と応えが返ってきた。「日本軍か、」「そうだ、」と言って近付いて来た。よく見ると少年兵らしい。
 その少年兵は敵弾で肺を後ろから貫通され、耳は彼の居た洞窟が米軍に爆破されため聞こえ難い様子で、司令部洞窟には短剣を探しに来たということだった。死に損ないの少年兵にしては、私よりも立派と感心した。

   永田氏の戦死

 それから共に敗残生活をする事になったこの少年兵が高野(現姓森岡)利衛氏であった。
 時を同じくして、私達の洞窟に、背後から機関銃弾を受けて虫の息のような兵が横たわっていた。背骨で弾が止まっている様子であったが、刃物も無く手術など出来そうもなかったため、只見守るだけであった。二日ほど過ぎ、その人は本当に静かな声で、「私は横浜の永田という者です。家の裏の高台へ登ると港がよく見えました。」と言い、少ししかない水を飲ませると静かに息を引き取った。この時は昼間に米軍が洞窟に入って来て、ドラム缶の水を下の便所に皆あけてしまったため、最後の水もほんの一、二滴しか無かったのだ。
 暑いテニアンで永田さんの遺体はすぐに腐乱し始め、夜になると横になっている我々の鼻の穴に出入りするうじ虫に悩まされた。しかし、『我々にも何時かはこの永田さんと同じ運命が待っているのだ。』と自分に言い聞かせると心も落ち着き、うじ虫も気にならなくなってきた。
 そうして一ヶ月近くも経った頃、数名の米兵が毎日洞窟へ金ばしごで下りてきて、司令達の居た所にあった道具や、突撃の際ハンマーで破壊していった無電機等をいじくり回していくようになった。米軍上陸部隊の交代があったようである。 この場所は灯台元暗しとはいえ、米軍部隊の最前線であり、一発のダイナマイトか火炎放射器で焼き払われれば一巻の終わりである。米軍が我々を発見するのは時間の問題であった。
 『この洞窟も今晩が最後だ。永田さんと別れよう。』
 今日までは、デンデンムシ(カタツムリ)を十匹位とると、白骨となっていた永田さんに先に供えて手を合わせ、細いサツマイモを一本か二本掘ると、先に永田さんに上げて手を合わせる。毎日欠かさず続けてきた。詫びしいながらも我々に出来る精一杯のこの供養も今夜が最後だ。『永田さん、さようなら。すぐ後から行くから。』と二人で心の中で告げ、深夜に司令部洞窟を出た。
 その後、第二回目の慰霊団にてテニアンに渡った時、永田様の御遺骨はやっと内地に帰ることが出来、厚生省により墓地に埋葬された。私と森岡氏も同席しました。

   ジャングル

 最後の集結地カロリナスに於ける日本軍の夜のみの散発的な抵抗も次第に下火になり、銃声も遠のいた昭和二十年の二月頃かと思われる頃、我々は東海岸の断崖の下のジャングルに分け入った。この時から数カ月に及ぶ敗残兵生活が始まる。
 我々は軍人なのだ。捕虜になるわけにはいかない。今となっては生きられるだけ生き抜くしかないと覚悟を決めた。昼は米軍の銃口を逃れて洞窟や岩陰に身を潜め、夜になるのを待って食糧や水を探してジャングルを徘徊する。
 ジャングルの中には所々に民間の人達が住んでいたような場所が何カ所もあり、彼らが置いて行ったらしいタピオカという芋のような物から作った粉が少々残っており、それを頂いて空腹を充たす。
 ジャングルを中腰でしばらく歩く。と、頭に何か当たった。見ると目の前に足が揺れているではないか。見上げると男が木の枝にヒモを掛け、首を吊っている。民間の男性らしい、死亡して相当時間が経っているようだ。この男の家族はどうしたのだろう。無事に米軍に助けられただろうか。気がつくと私の頭から血が滴っている。銃弾で負傷し、やっと張った薄皮を彼の足先が蹴破ったらしい。
 ある日の未明、カロリナスの崖下を東海岸に向かってジャングルを掻き分けているとすぐ頭の上で声がする。急いで崖の窪みに背を押しつけて息を殺す。手を伸ばせば届くような所に足が見える。米軍の歩兵らしい。黒光りする自動小銃を崖下に向けて立っているではないか。我々には気づいていない。その時、先方のジャングルで誰かがガサッと音を立ててしまった。米兵がすかさず手榴弾を投げた。轟音がジャングルを揺るがす。しかし誰もやられた様子は無い。米軍の歩兵らしい者がまた近くに集まって来たらしい。しばらく息を殺して米兵が帰るのを待った。
 夜になるのを待って再びジャングルをバンザイ岬に向かって歩きだしたが、またもや首吊り死体にぶつかった。この人も民間人だ。何とこのジャングルは墓場のようだ。戦場になる前はここにも相当数の民間人がいたらしい。方々に生活の跡が見える。こんな場所にも人々が住んでいたのだろうかと驚く。我々軍人は常に戦場を往来していたため、このカロリナス台下のジャングルに入るのは初めてであった。

   合流

 十月上旬であったと思う。カロリナスの司令部洞窟より断崖を降り、海岸下の洞窟を見つけた。その洞窟には五、六名の兵士がいた。ほとんどが海兵で、警備隊の生存者にも芳賀隊の今井兵曹(生還)、二本ヤシ柴田砲台の生き残りの藤田兵曹(生還)、中村先任伍長、清水一水がいた。清水一水は極度の栄養不良で歩くことは勿論、生きているのがやっとの状態だった。合流した我々は毎日、夜を待って海岸の上に出て食料を探し歩いた。そうしたある夜、海岸の波打ち際をぼろ切れのみの姿で、海を泳ぎ岸に上がって、南海岸から東海岸の方へ歩いてくる敗残兵がいるではないか。近寄ってよく見ると、なんと警備隊小川砲台の先任下士官、中村上曹ではないか。また敗残兵が一人増え、心強いやら心配やら複雑な気分になった。
 やがてこの洞窟も去らねばならぬことになった。二人連れで海岸を歩いてきた米兵を洞窟の中から射殺してしまったのだ。連れの米兵は一目散に逃げ帰った。それからが大変だった。我々の洞窟の上に目印を立て、海からは駆逐艦で艦砲射撃の準備をし、頭上ではディーゼルエンジンのドリルで穴を開けて爆破しようとしているのだ。
 この穴も今晩限りだ。よし、今晩中に海岸を上がろう。しかし、海岸の上には米軍の歩哨が立っているのだ。海岸の洞窟から一人ずつ、上を注意しながら少しずつ登り始めた。仲間の一人は泳ぎが達者らしく、海へ飛び込んで泳ぎ始めたが、なかなか岸より遠くへ離れて行くことが出来ず、行きつ戻りつしていたが、やっと大波に乗って手を振りながら波間に見えなくなった。目の前の海上四キロ南に、無人島アギーガン島(ヤギ島)が黒く横たわっている。アギーガン島に辿り着く前に、大鮫に出くわしてしまったのか、生存者名簿にはついに見つからなかった。我々は禄なものを喰っていず、体も弱っている者が多いので、海岸の上を強行突破して米軍に狙撃されても誰かは残るだろう位の考えで、少しずつ登り始めた。私は一番か二番目位に、米兵が海上を見ているすきに足元数メートルのところを通り抜け、カロリナスの崖を目指して一目散に走った。すかさず米兵が発見し銃を乱射したが、幸いなことに夜の銃弾はなかなか命中しない。やっとカロリナスの崖下のリーフの岩の割れ目に身を隠し、少しずつ移動してマルポーの海岸へ向かった。

   敗残兵

 米軍の敗残兵掃討は日毎に激しくなり、カロリナスの台上にも台下にも米軍の歩兵部隊が朝から行動するようになっていた。点在する洞窟と焼け残ったカロリナスのジャングルを火炎放射機で焼き払い、手榴弾で爆破して歩くのだ。私と高野、清水の三人は追い詰められて次第に身を隠す場所に窮し、相談の結果、一緒に居るよりもバラバラに行動した方が米軍に発見され難いだろうとなった。
 我々は別々に焼け残った砂糖黍畑に潜伏し、二日間はなんとか無事に過ごすことが出来た。しかし三日目になると砂糖黍畑が燃えだした。米軍が火を付けたのだ。最初の内、米軍は無益な殺生をする気は無く、投降を待っていたらしいが、油断をすると何処からともなく手榴弾一つで体ごと突っ込んで来る日本兵に手こずり、焼き払い戦法に出たらしい。風上に火を付け、風下に出てくるところを機関銃隊が皆殺しにするのだ。
 私は砂糖黍畑の低いところに身を伏せ、熱いのを我慢して火勢の衰えるのを待った。やがて頃合を見計らって移動しようとするとバリバリと大きな音が聞こえてきた。なんと米軍の戦車が風上から砂糖黍畑を踏み潰しながら迫って来たのだ。もうこれまでと覚悟を決めた。ところが戦車は私が身を伏せている六、七米横を通り過ぎて行くではないか。あのまま真っ直ぐに来られたら間違いなく踏み潰されていただろう。どうして避けていったのかと不審に思ったのは後のこと、その時は安堵の思いで溜息を吐くのが精一杯だった。私の前方二、三米の処に砂糖黍運搬用に使用していたトロッコの線路があり、戦車はそれを避けて行ってしまったのだ。高野も私同様の好運で殺られずにいた。日が暮れるのを待って他の隠れ家を探す事になった。
 あまり暗くならない内に行動しなければならない。米軍が帰るとすぐに移動を始め、足元に気を付けながら洞窟を探した。どうやら米軍の最前線の近くでは安全な場所など有る筈も無いと気が付いた。高野と二人で顔を合わせ、無事を喜んだのだが、今日は無事でも明日はわからない。今晩だけはどこかに身を隠し、明日は米軍の前線を突破し、敵中奥深い場所の方が米軍が油断して却って安全だろうと言うことになった。
 夜半前に出発した。マルポー水源地付近を通り、道路を避けて歩いて十字路に出た。米軍の歩哨を警戒して十字路の手前でリーフのかけらを五、六個拾い、前方に投げた。もし歩哨が居れば彼等は口笛を吹くか、小銃を一発か二発、空に向けて発砲して味方に知らせるのだ。もっとも風下から近付けば米兵の体臭や頭髪の臭いで五十米位前から気付くことが出来る。彼等がいれば遠く迂回して避ける。

   野戦病院

 ソンソン町の北の崖の中腹を音を立てぬように通過し、元の警備隊司令部洞窟の上を通り抜けたところで、野戦病院のあった洞窟に缶詰の箱が沢山あったのを思い出した。確か負傷者の寝ていたところの下にあったはずだ。その洞窟の近くまで行くと崖の下の方が真昼のように明るい。米軍の物資の集積所らしい。煌々と電灯を点け、自動小銃を肩に掛けた歩哨が積み上げた物資の周りを警戒している。我々から二、三十米の近さであった。息を殺して岩陰に潜み、暫く様子を伺っていると、歩哨が遠ざかって行くのが見えた。「今だ、」静かにそこを離れ、洞窟に向かった。
 野戦病院跡に着くとそこには既に米軍が入っていた。戦死者は運び出され、缶詰の箱は外に持ち出して殆ど焼却してあった。焼けただれた缶詰の中から何とか食べられそうなのを幾つか選び出し、持ち帰ることにした。また歩哨の目をかすめてペペノゴル小川砲台方面へ向かった。広い道路に出た。この道路はもっと狭かった筈だが、米軍のトラックが踏み潰して広くなったらしい。この道路を横切らなければならないのだが、夜間にも拘らずトラックがひっきりなしに通っており、なかなか機会がつかめない。カーヒーやハゴイ方面へ輸送しているらしい。トラックの列の途切れる間を待ってやっと突切る事が出来た。

   ペペノゴル

 ペペノゴルへ近付くと多少ジャングルらしい処もあり、やや安心して歩くことが出来た。小川砲台はすぐに見つけられた。米艦隊との砲撃戦で命中弾を受けた杉本兵曹の二番砲は砲身が空を向いて使用不能となっており、銃丸のコンクリートも天井も艦砲と空爆によって無惨に崩れ落ちていた。高野と二人で大砲の打ち針(尾栓)を取り外して海へ投げ込んだが、今考えてみれば米軍がこんな旧式の大砲など使用する筈がないのに無益な事をしたものだと思っている。東の空の明星が大きく、明るくなってきた。夜が明けようとしている。急いで海岸近くの繁みに入り、息を殺して潜んでいた。
 太陽が昇ってきて南洋の暑さが次第に身にこたえるようになってきた。我慢してじっと耐えていると、突然米兵の声がした。声のする方を伺うと、上半身裸の数人の兵が我々の潜んでいる直ぐ前の崖を降りている。海岸には砂浜があり、木製のボートが上げられているのが微かに見えた。彼等は昼日中、浜の浅瀬で舟遊びをしているのだ。そうだ、今夜あのボートを盗んで隣のヤギ島(アギーガン島)へ逃げよう。生きて日本へ返る心算はないが、無人島で一生を終えよう。そう考えて高野に目で合図した。彼も私の意図が解ったようだった。日が暮れるのを待って昼間米兵が昇り降りしていた崖を下り、砂浜のボートに近付くと所々にガスの火が見え、人の気配が感じられる。ハッと身構えるとパンパンと小銃か拳銃の発射音がした。我々は一目散に逃げ出し、元の崖の上に戻った。幸い誰にも当たらず、ホッと胸をなで下ろした。まさか米兵がまだ居るとは思わなかった。彼等は海水浴の後、冷えた体をガスの火で暖めていたらしい。彼等もさぞ驚いたことだろう。
 後になって聞いた話だが、前夜か前々夜に数名の敗残兵が小舟を盗んで無事にヤギ島に着いたという。ヤギ島までの海は海流が早く、相当詳しい者でなければ辿り着くことは出来ないと言う話であった。彼等は無人島だと思って渡ったのだが、そこには陸軍の少隊か中隊程度の小数の兵員がおり、やっと辿り着いた彼等は敵前逃亡の罪で処刑されそうになったという。自分としても戦友が皆戦死しているのにヤギ島に脱出する事などよくも考えたものだと情けなく思った。

   新湊

 小舟を盗んでの脱出を断念し、新湊方面に向かった。昼間、海岸上の岩の割れ目に身を隠して海面を見ていた時、大きな海亀が数匹群れているのが見えた。『この海亀のように海で生きられたら良いなー』等と考えていると、今の敗残兵の生き様をつくづく情けなく思ったことか。
 新湊では高野と一緒に米軍基地の近くに潜み、米兵との共同生活をしているような塩梅で過ごしていた。ある雨の降る夜、多分カーヒー付近だと思うが、だいぶ広い道路の左側を歩いていた。突然、何かに当たったような気配がしたと思ったら、「ギャーッ」とか「ノーッ」とか人間の声がした。日本兵の声ではない。「アッ」とこちらも驚いて一目散に逃げ出した。米兵が二、三人、頭から雨カッパを被り、箱に腰掛けていたのに突き当たってしまったのだ。米兵は大声を出して我々を追って来る。ここを先途と逃げるのだが、なにしろ奴等は脚が早い。足の長さが違うから当然の事である。この侭ではすぐ追い着かれると思い、道の左側の二番芽が出た砂糖黍畑に跳び込んだ。砂糖黍の狭い間隙を横歩きに逃げて道路から少し遠ざかった処で米兵に道路から手榴弾を投げ込まれた。私の側のリーフの小山に当たって爆発し、轟音と共にリーフの破片が飛んで来て腰の後ろに突き刺さった。細かい破片は自分で取れそうだったが、腰が痺れて痛かった。何とか我慢出来そうだと数刻そこにじっとしていた。
 米兵は畑の中までは追って来ず、引き揚げて行ってしまった。この辺は米軍の飛行場の近くで、彼等は警備兵だったらしい。まさか足元に日本兵が潜んでいようとは思いもしなかったろうに、この時刻、この辺でばったり出喰わしたのだから彼等もさぞかし驚いたろう。
 普段なら彼等の存在はすぐに気付いたのだが、急なスコールの中、頭から雨カッパをすっぽりと被っていたので、彼等特有の臭いが我々に届かず、突き当たるまで気が付かなかったのだ。
 暫くそこにじっとしていたが、それ以上彼等の動きも無いようなので、畑の中を進むと高野達と出会った。殺られはしなかったかとお互いに心配していたが、また無事に再会することが出来た。何度も米兵に発見され、その度に命からがら逃げ延びることが出来た。今生きているのが不思議なくらいだ。
 今日もまだ命はあったが、食料の確保が大変だった。デンデン虫と甘藷の葉とガマ蛙で何ヵ月生き延びたろう。最近では月日を数えるのは我々には意味がなかった。その日を生き延びるのが精一杯でそんな心の余裕はなかったのだ。自決用の手榴弾はまだ使えそうだが、今では自決は出来なくなっていた。情けない敗残兵の姿だった。本当に自分ながら情けないと毎日思っていた。

   再びカロリナスへ

 明日からこのテニアンのどの辺で生きようか、皆もその事を考えているようだった。誰の考えも皆同じだった。さあ、出発しよう、腰の痛みは大した事は無い。三人は歩き出した。誰の足も自然とカロリナスに向かっていた。皆が玉砕したカロリナスへ。死ぬならカロリナスだ。玉砕の地、カロリナス台上だ。カロリナスへ帰ろう。
 カロリナス台上に着くと戦死者の遺体は見当たらなかった。玉砕後、二、三日の内に米軍が片付けてしまったらしい。またねぐら探しをしなければならない。その晩は二組に別れてジャングルに潜み、空き腹を抱えて一夜を過ごした。
 夜が開けて太陽が高くなると米軍の黒トンボがやって来て我々の上をぐるぐると一時間ばかり偵察して帰る。観測機が我々の行動を監視しているのだ。機銃弾を御見舞いされない分、グラマン戦闘機よりはましなのだが、何とも気色の悪い黒トンボだ。

   乾パン

 黒トンボの姿が見えなくなると敗残兵が集まって今晩の食料探しの相談をする。我々は小川隊長の居た小川隊本部の防空壕を考えていた。その壕が見つかれば何か食料が残っている筈だと思い出していた。高野もそうだと相槌を打つ。夜になるのを待って早速出掛けた。確か三名で出掛けたと思う。
 案外早くその壕は見つかったが、米軍の戦車砲で滅茶苦茶に潰されて原型を留めぬ程だった。壕の中は土砂で埋まり、肝腎の食料は何処に有るのかわからなくなっていた。それでも三人で手や板切れや棒などで懸命に掘ったが、仲々掘れるものでは無かった。途中、衣類などが出てきた。私は小川隊長や側近の兵達の自決体でも有ればとの思いもあり、一心に掘り下げた。しかし、夜明けが近くなってきたので、明晩また来ようとなり、掘った土を元に戻してその日は引き揚げた。
 昼はジャングルにじっと身を潜め、夜を待って再び壕に戻り、昨晩の続きを始めた。昨晩堀った処までは土が柔らかく、容易に掘り進められた。時々米軍のトラックがマルポー方面からサバネタバシの手前を通り、カロリナス台に登って一巡して帰って行く。トラックのライトが我々の方を照射する度に身を伏せてやり過ごし、また掘り進めるのを何度か繰り返した。とうとう棒が何かの缶に当たった。金属製の箱が出てきた。良く見ると海軍の乾パンの入った箱ではないか。これには皆大喜びであった。この箱一つ有れば一人なら一ヵ月くらいは生きられる分量であった。小川隊長が我々に残して呉れたものと勝手に解釈して有り難く頂戴する事にした。しかし、四、五人の仲間でこれだけ食べているととても保たない。副食として野菜代わりにバナナの葉の芯を摘み採り、海水で揉んで食べた。甘藷の葉が有れば一番の野菜なのだが、なかなか見当たらなかった。

   デンデン虫

 そうこうして月日が過ぎていった。有る夜のこと、米軍の射撃練習場を見つけ、そこの番小屋に入って何か無いかと手当たり次第に品物を掻き回してしまった事が有った。朝になって米軍の知る所となって敗残兵の仕業とわかり、掃討の兵が繰り出されてきた。まさに薮蛇であったが、我々はそこまで追い詰められていた。
 自動小銃で武装した米軍の歩兵は十名から二十名くらいが一組になり、一日中洞窟を掃討して歩いた。最近は米軍の方針が変わったらしく、米軍の兵舎とか陣地などを襲わなければ敗残兵討伐はあまり無くなって来ていた。
 月日が過ぎて行き、相変わらず食料調達は侭ならなかった。デンデン虫は生ではとても食えず、火を起こそうにもマッチは無く、窮した末に考え付いたのがレンズで火を起こすことだった。しかしレンズなど何処に有るのだ。双眼鏡でも有ればそのレンズが使えるのだが、ハタと気付いた。車のヘッドライトが使える。早速米軍の車両から頂戴して火起こしに取り掛かった。布切れをよじって火縄を作り、太陽の光を火縄に集めるとポッと煙が立った。苦労して点けた種火を絶やさぬようにして夜間、洞窟の中で煮炊きをした。海水と火があれば何とか生きて行ける目算が付いた。しかし、またもや我が身のこの姿の情けなさ、哀れなこの姿、どうして皆と、戦友と共に死ねなかったのか、臆病なのか、度胸が無いのか、悲しくなった。その時の海水の不味さが今でも思い出される。

   武ちゃん

 それからの食糧探しは大変だった。米軍基地の近くまで遠出しなければ残飯にありつけなかった。玉砕後何カ月位経ってか分からないが、サツマイモの菜っぱを取りにカロリナスの台上に行った時、名古屋出身の武ちゃん(故武下氏)と言う陸軍の敗残兵と会い、意気投合して行動を共にすることにした。昼間、山芋の太めのを掘り当て、米軍の缶詰の缶に釘で穴を開けて擦り下ろし、内地の正月のお供え餅そっくりに、こってりと見事に出来上がり、皆で喜んで食べた。翌朝は米軍の作ったトウモロコシ畑の繁った所に入り込んで寝入ってしまった。
 私はどうも寝つかれず、朝になり辺りが明るくなると、どうも様子がおかしい、それもその筈、日本兵の白骨や防毒面、水筒、その他が大型機械で耕起され、その辺り一面白骨の山となっているではないか。付近が騒がしくなったので身動きせずにじっとしていると、「ガサッ。」と音がして「ガチャッ。」という音と同時に、武ちゃんが「ギャッ。」という声をあげると前のめりに倒れ、そのまま動かなくなってしまった。見ると、後方に米兵が二名位立っているではないか。とっさの出来事であった。前夜に食べた山芋のお返しに武ちゃんが何度か大きな屁をしたので、それが米兵に聞こえてしまい、畑の中に入ってきて日本の敗残兵を見つけ、小銃で背後から狙い撃ちされたのだった。仲良しの武ちゃんは先に逝ってしまった。
 その後二晩、小さな芋を見つけては小さな皿に盛り、武ちゃんに供えに行った。遺体は米軍が丁寧に土を掛け、盛り上げてあったが、三日目の晩にはもう遺体を掘り起こして、跡形もなかった。名古屋の武ちゃんとも別れ、またねぐらを探してカロリナスを移動しつつ、月日が経って二十年も春となった。もうこの頃は高野と二人っきりの時も多かった。

   生ける亡霊

 「太平洋の防波堤」も敢えなく崩れさり、我々兵士に情報は全く伝わらず、まだ残っているであろう連合艦隊がサイパン、テニアンを奪回に来るだろうというかすかな望みも、もはや断念せねばならぬ時期らしい。その予感がしつつある。
 生き残ってしまった我が身をもてあまし、敗残の身を生ける亡霊が如くカロリナスの薄暗いジャングルににさまよわせる姿にはかつての輝かしい皇軍兵士としての面影は既に無く、身に帯びるのは自決用の手榴弾ひとつ。『このテニアンの地に二十三才の身を野ざらしにするのか』、『誰にも知られぬ所で』。
 でも高野がいる。生死の境を共にしてきた高野がいる。高野がいなければとうに自決していたかも知れぬ。

   高野の再々負傷

 ある日、二人で西海岸へ行った時、高野が負傷してしまった。
 米軍機の爆撃の跡の大きな穴に我々が潜んでいた時、米兵に狙い撃ちされてしまったのだ。高野は以前にも胸に創傷を負っていたために苦しくて長く伏せていることが出来ず、我慢しきれず体を上げたところをトラックの上から狙撃されてしまったのだ。
 銃弾は右鎖骨を貫通しており、血止めをするのがやっとで今度は大変だった。これまでも二度三度と重傷を負ったにも拘らず、またしても重傷を負ってしまったのだ。『高野、死ぬなよ。生きていてくれ。死ぬときは二人で。』と念じながら、寄り添って米軍の帰るのを待ち、夜が来てから彼を支えて歩き出した。『しかし、この小さな島テニアンに生きる場所があるのか。島全部がアメリカだ。』『いや、まだ日本は敗れていないのだ。一日でも生き延びよう。』『自決用の手榴弾はある。米軍に撃たれたら、この手榴弾で自決しよう』『いや、今となっては自決も出来ない。』と何度思い、何度考え直したろう。皆が立派に戦死したのに、自分はなぜ死ねぬのか。戦友達と死に別れてから早くも六、七カ月が過ぎようとしている。日本内地はどうなったろう。母は元気だろうか。上海から帰っても家には寄れず、横須賀で急ごしらえの隊編成、そして出航、米潜水艦との出会い、やっとテニアンへ、大砲の陸揚げ、米艦との撃ち合い、自分は今後どうすれば良いのか。米兵に撃たれるのを待つのか。頭の中を想いが渦巻く。重傷の高野をどうしたらいいのか。

   ボロボロの敗残兵

 日本ヤシの小川隊本部兵舎にいる時分、同郷の久留生上水と食事を分け合って食べ合っていた頃を思い出した。しかし、今はだれもいない。どこにもいない。米軍の艦砲にやられたのか。サイパンからの長距離砲にやられたのか。アメリカの飛行機にやられたのか。現在生きているのが不思議な位なのだ。同じ仲間に敗残兵をしていた名古屋の武ちゃんも、南海岸で海を泳いで遠くへ流されてしまった兵隊も、我々の洞窟の隣の小さな洞窟にいた二人も撃たれて死んでいる。
 だんだん心細くなってくる。生きて日本へは帰れないのだ。一年でも二年でも日本の軍隊の教育を受けた者としては。だが、今の敗残兵の姿はどうだ。ボロボロの陸戦隊の服は着ているのだが、上衣は縫い目だけしか残っていない部分もあり、ズボンは下の方が全然切れてない細い針金で糸の替わりに縫い合わせて着ているのだ。年輩の兵隊はヒゲぼうぼうの延び放題。まるで山賊の集団だ。
 今の敗残兵仲間ではテニアンの地理に詳しい者、あるいは食糧を確保できる者が指揮者なのだ。だが、玉砕して大家司令と別れてから早や七ヶ月以上経っている。米軍はテニアンの日本の飛行場を整備してB29式爆撃機を並べている。硫黄島か日本本土近くまで行って来る様な気配であった。
 後日判ったことなのだが、大家司令が大変心配なされていたテニアン在住の民間人の人々のうち、テニアンのバンザイ岬に身を投げた人々も沢山いたらしいが、生き残った者は米軍に収容され、傷の手当てをしてもらい、元気を取り戻しているようだった。地下の大家司令に報告したいものである。

   米軍放送

 この頃になると、米軍が拡声器で「戦争は終わりました。日本の兵隊さん出て来なさい。」と大声で怒鳴る日が毎日のようにあった。「水もあります。煙草もあります。アメリカは決して皆さんを殺さない。」と聞こえてくる。
 だが、B29爆撃機の編隊が毎日サイパン・グァムからも飛来し、テニアンの上空で編隊を組み、西の方に飛んでいくのだ。戦争が終わったはずがない。しかし、日本海軍の大高少尉が毎日のように米軍と共に来て、「敗残兵の皆さん、早く出てきなさい。そして疲弊した日本に帰り、日本の再建のために尽くすのだ。お前達の力が必要なのだ。」と繰り返し放送する日が続く。それでも我々には信用出来ない。まだ降伏は出来ない。
 毎夜、我々は交代で米軍兵舎の近くに食糧を探しに出掛けていった。米軍は、食糧や缶詰の食べ残しに油をかけて崖の上からダンプで落とすのだ。うじ虫のいっぱい付いている缶詰等を拾い集めて蓄えておき、長期の敗残兵生活に備えた。

   カッチ工場

 二本ヤシ柴田砲台下の海岸寄りにカッチ工場という、南洋の潅木を利用した染め物の染色料を作る工場があった。その付近に日本の敗残兵がおり、集会所らしき場所もあり、玉砕前か直後に第一航空艦司令長官の角田中将も来たらしい。と言うような話が敗残兵仲間より聞かれたが、その後、角田長官の姿を見ることは無かったという。最後の「一航艦」司令部の深い、一番下の洞窟内で拳銃で自決されたものと思われる。日本の潜水艦が長官を救出に浮上したという海上の近くである。後に知ったところでは、サイパン陥落の報を受け取った日本軍部はテニアンの航空隊の全滅を恐れてダバオに移動を命じたが、数度の潜水艦での救出計画は米艦船に発見されて失敗に終わったという。
 カッチ工場付近は初めての我々には勝手が分からず、夜のみ二度ほど近付いたが、それくらいでは全く見当も付かなかった。

   食糧

 カロリナスの我々の隠れ家の洞窟の西側にかなり大きな洞窟があり、満州から派遣された陸軍の敗残兵がいた。ある日、カロリナス崖下でその洞窟の誰かが、島内に僅かに残った牛の一頭を拳銃で撃ち殺し、味噌漬にして食べたのだが、食べ過ぎた下士官が下痢をしてしまった。ところが洞窟内では用が足せず、かといって洞窟の外に出ると米兵が崖の上から機関銃で狙っているのだ。夜ならば洞窟の外でも用が足せるが、なにせ下痢は夜まで待ってはくれない。にっちもさっちも行かなくなったその下士官が洞窟内で拳銃を乱射し、敗残兵同士の争いが始まり、危険な状況だったらしいことを後で知った。
 我々も米軍の目を盗み、焼けた民家の石垣に生えている内地のニラに似た青物を二、三人で採り、米軍の缶詰の空き缶に入れて海水で煮て食べたことがあったが、これが失敗だった。葉だけ食べた者は大したことは無かったが、汁まで全部飲んでしまった者は災難だった。血が混じるほどの猛烈な吐き気で大変苦しい思いをした。
 住吉神社の付近で一本だけ焼け残ったパンの木の大木に実がなっていた。大きそうな実をもぎ採って焼いて食べたのだが、これがなかなかうまい。敗残兵となってから今までに食べた果物では一番美味であった。パパイヤの木も殆ど焼け、実が全くついていない。パパイヤの青い実は刻んで漬け物にすると結構食べられるのだ。しかし、今ではどこにも実がない。ソンソンの町のあたりは草も無いほどの焼け野原なのだ。我々敗残兵が何とか生きていけるのはカロリナスの一部、それも崖沿いのほんの僅かな土地のみである。
 南洋の常夏の気候のもと、身につけている物と言えばボロボロになった服とも言えない物であり、食べる物と言えば芋やカタツムリ、米軍の残飯であり、我々敗残兵にとって季節感などと言うものは無縁であった。
 この頃、テニアンで原爆の組み立て工場ができたらしいが、我々には知る由もなかった。

   投降

 おそらくこの年が我々の最期の年となるだろう。誰にも知られずに朽ち果てていく二十三歳の短い命。しかし、大東亜戦初期より現在まで大勢の若い命が消えていっているのだ。もう少し生きよう、最期は米軍に胸を撃ってもらって死のう。この頃になると手榴弾で自決する事は考えなくなっていた。手榴弾の安全栓は錆びて動かなくなり、木の小枝と取り替えた者もいた。
 最初カロリナス海岸洞窟にいた我々は今井兵曹とも別れ、北方のキスカ島より撤退してテニアンに派遣された安浦兵長と中村先任と高野電信員と清水一水と私というグループになっていた。
 食糧探しも仲々大変になってきていた。米軍のゴミ捨て場がカロリナスの西方、敗残兵の足でも三十分位で行き着ける場所にあることが分かり、交代でごみ捨て場に食糧を探しに行くようになった。残飯や牛肉や他の食糧の残りをダンプで運び、高台から落として油をかけて焼くのだが、下から上へと探しながら登ると結構良い品物や食糧が土嚢の半分くらいは拾えた。早速山へ帰って皆と喜び合って食べ、幾日かが過ぎていった。
 相変わらず早朝よりB29爆撃機が西方へ向かって編隊を組んで飛び立っていく。ゴミ捨て場で拾ったアメリカの雑誌「ライフ」を見ると、日本本土を爆撃しているらしく、写真に日本の都市が写っているではないか。米軍は、硫黄島や沖縄を攻撃し、硫黄島をも占領したのであろうか。ただ声もなく驚くばかり。中村先任は多少英語が分かるらしく、所々読んでいる様子であった。それでも日本が敗れるとは誰も思わず、相変わらずゴミ捨て場に通っていた。
 数日後、私他二名でごみ捨て場に残飯拾いに出掛け、焼け残りの缶詰や豚の足や野菜の缶詰等、真新しい品々が袋一杯収穫があり、喜び勇んで帰ろうとした時のことであった。誰かが大きな缶を踏み、転がして大きな音を立ててしまったのだ。突然、上からまぶしい投光器の光を照射され、腹這いの状態でじっと身動き出来ないでいた。すると、上から日本語で「日本兵だろう。私は、海軍の大高分隊士である。もう戦争は終わったのだ。上に上がれ。逃げても無駄だ。」と言われた。日本海軍の将校が言うのに間違い無いだろうと一応観念し、言われるままに上に登ると、何と米軍のジープと米軍の将校らしい数名の者と先ほどの大高分隊士が居るではないか。他に日本人らしい者も見られた。遭難者のような我々敗残兵とは大違いの健康的な体格に戻り、こざっぱりした服も着ているのだった。
 我々が呆気に取られていると、米兵がさっと椅子を出し、「プリーズ。どうぞ。」と言う。進められるまま椅子に座りはしたが、山に残してきた中村先任達の事を思うと、どうしても山に帰りたいので、大高分隊士にまだ仲間が山にいることを告げた。大高分隊士は米軍の兵士に何やら話していたが、米兵に命じて箱にサンドイッチを八名分くらい詰めさせ、我々三名の敗残兵に「これを持って直ぐに来た道を間違わずに山に戻れ。もし道に迷うと米軍に撃たれる。」など、細かい注意を受けた。
 夜の明けない内にもと来た道を仲間の待つ山に帰った。中村先任等の敗残兵達は、我々食糧探しの者の帰りがあまりにも遅いため何事か起きたと予感し、これからの行動を相談し移動の準備をしていた。我々が事の次第を説明をすると、中村先任は「まだ、B29が西へ飛んでいる。戦争は終わってはいない。例え戦争が終わっても、我々軍人は投降は出来ない。」と言うので、『この山を出よう。』と一同の相談が決まり、移動の準備を始めた。
 もう東の空は明け始めていた。何時間か経つと山の下が騒がしくなってきた。そっと覗いて見ると、なんと下には米軍の救急車やジープが止まっているではないか。拡声器をこちらに向けて、「迎えに来ました。どうぞ、下に降りて下さい。」と言う。我々も、もう是れ迄と観念した。
 中村先任はヒゲぼうぼう。高野は針金で繕ったぼろぼろの上衣。ズボンはとっくに無くなり、代わりに紐の代用として米軍の電話線で土嚢の麻袋を縛って後ろに垂らしていた。前の方は無くとも、後ろが有れば腰を下ろした時あまり痛くない。後ろだけで結構用が足りた。その姿で、中村先任を先頭に一同山を降りた。
 待っていた米軍と大高分隊士達は、車からタバコを出して我々敗残兵に手渡してくれた。終戦間近になって、やっと投降したのだった。
 捕虜収容所に入っても、陸軍の戦死した方々、第五十六警備隊の方々を思うと、米軍給与の食事も喉を通らぬ日々が続きました。米軍上陸地点で正面から迎え撃った陸軍の麻生隊と海軍の及川隊は全滅し、両隊の生存者は一人も確認出来ませんでした。米軍上陸地点付近、特に陸軍麻生隊と海軍及川砲台全員、陸軍五十連隊の一部の遺体約三百体は後日、上陸地点の正面で掘り出され、日本に帰りました。麻生隊のトーチカにも七体あり、同じく収容されました。
 警備隊のうち、小川隊の沼田砲台もアシーガー近くでサイパンの米上陸用支援艦に対して援護射撃を行い、米艦に被害を与えたが、サイパンよりの米軍の何十門、何百門という一斉射撃によって、また、空からの爆撃によって破壊され、かろうじて生き残った隊員もカロリナスで自決して果て、生存者は一人もいませんでした。


   おかしな話

 昭和二十年、春もとうに過ぎた七月も中旬の頃、捕虜収容所で不可思議な事件が起きた。
 収容所内の我々の仲間に渡辺一曹という猛者がいた。彼とは敗残兵生活を倶にし、投降も一緒だった。堂々たる体格の持主で、横須賀海兵団に居た頃は相撲部に所属していたらしく、格闘技には自信があるようであった。
 彼が第五十六警備隊小川隊の何番砲かは忘れてしまったが、二本ヤシ柴田砲台の射手をしていたころ、米巡洋艦と一騎打ちをやってのけたほどの大変な猛者だった。額と肩に負傷しており、後に脚にも傷を負ったが彼の猛者ぶりは一向衰えず、中村先任下士官と数回口論もし、日本刀で切合いに及ぶ場面もあった。
 中村先任下士も剣道の達人で、どちらも後へは引かない同士で我々兵は本当に困った。この頃は兵とか下士官とか階級は意味が無くなっており、皆同じ気持ちになっていたのに何故か気の合わない二人なのであった。
 投降して収容所に入っても渡辺一曹は何故か落ち着かず、数日経って米軍将校にトンでもないことを掛け合った。「やっぱり山へ帰してくれ」と言う。その米軍将校はシュナイダー大尉かエイプ少佐だったと思われるが、彼等の困惑した顔が目に見えるようだ。しかし彼等の取った処置はもっとトンでもないものだった。なんと、彼の言い分を請け容れてしまったのだ。
 ある雨の降る夜、エイプ少佐は彼の頭から雨カッパを被せて作業員に見せかけ、トラックに乗せて山へ向かい、無事にカロリナス台近くまで送り届けたという。その時にエイプ少佐の言うよう、「また気が変わったなら米軍に投降するように」と。食糧を渡してジャングルに消える彼の姿を見送ったという。
 後でこの話を聞き、例え勝ち戦とは言え米軍将校のなんと度量の大きいことかと心中驚きもし、日本軍に同じ事が出来るだろうかと考えさせられもした。
 サイパン戦では何千名という米将兵が戦死し、テニアン戦に於いても同様の戦死者が出たというのに、米軍のこのような行動は我々収容所仲間にも大変な驚きをもって受けとめられた。
 山に帰った渡辺一曹はその後数日して再び投降してきたのだが、一体何のために山へ帰ったのか我々にはついに理解できなかった。彼は内地へ帰って間もなく亡くなったという。

   シュナイダー大尉

 米軍の将校についてはこんな逸話もある。
 投降して収容所にいた我々の前に一人の将校が現れ、日本語で話しかけてきた。それも流暢な東京弁でいきなり、「お前達、ヤンキーに負けたな」と話しかけてきた。面食らっている我々に彼は親しげに話しかけた。彼はシュナイダー大尉と言い、東京で生まれ、東京で育ち、東京の大学まで出ていると言う。道理で日本語が達者なはずだ。彼は終始暖かく我々に接してくれたのだが、ある日彼に難問が降り掛かった。B29の機長として東京を空襲せよという。
 彼はその命令を拒否してしまった。自分が生まれ育った街を自分の手で焼き払うのは彼には出来ることではなかった。米軍では命令に逆らうと階級を下げられ、給料も下げられてしまい、彼も二階級下げられ少尉になってしまったが甘んじてそれを享け容れたのである。米軍の将校の給料で二階級下げられると云えば相当な金額でしかもアメリカでは給料が下がるとすぐ奥さんに離婚されてしまうと言う話だが、シュナイダー大尉はただ笑っているだけだった。アメリカの軍人にも偉い人がいるものだと今更乍ら考えさせられた。
捕虜収容所で暫く過ごした後、サイパンを経由、ハワイで傷の手当を受けることになった。

   虜囚

 昭和二十年八月、我々捕虜はサイパンのドンニー収容所に移送され、さらにハワイに送られる事になった。ハワイに移送される船上で戦争の終わった事を知らされた。
 ハワイのオワフ島のホノルル港に入港すると、そこには大勢のアメリカ婦人が出迎えていた。勿論、歓迎では無かった。我々が下船すると彼女等は口々にジャップ、ジャップと我々をののしり、唾を吐き掛ける者もいた。先の尖った靴で蹴飛ばされた者もあった。それもその筈、彼女等は未亡人らしく、「ユー、サイパン」、「ユー、テニアン」と我々に聞いてくるのだ。我々は彼女達の仇であった。
 ホノルルの建物は皆、日本軍機の銃撃で穴だらけになっており、その上にペンキを塗って弾痕に丸く印を付けていた。真珠湾攻撃時の日本軍機の攻撃の凄さをまざまざと見せつけられた思いがした。
 ハワイでは暫く医者の治療を受け、頭に残ったままになっていた銃弾かリーフの破片を摘出して貰った。治療が終わるとまた船に乗せられ、アメリカ本土に移された。カナダの国境近くのシアトルに上陸し、汽車で太平洋岸を南下、サンフランシスコ湾内のエンジェリー島収容所に収容された。ここではパンのみの食事であった。暫くしてまた汽車に乗せられ、今度は内陸部のテキサスの収容所に移された。
 テキサスの収容所にはドイツの兵隊も大勢収容されていた。彼等は皆、収容所の外で元気に働いており、夕刻になると早めに収容所に帰って来ると我々日本兵に英語で話し掛けてくる。「我々ドイツ兵は一生懸命に働いて金を貯め、国へ帰って元のドイツにするのだ」と言う。時には我々のテントにスピーカーを向けて音楽等を聞かせて呉れる事もあった。同じ敗戦国の兵隊でも我々日本兵はあまり作業にも出ず、米兵が英語を教えようとしても誰も習おうとはせず、これからは英語が世界の共通語になる等と我々を説得しても耳を貸す者はいなかった。我々はあまりにも世界情勢に無知であった。今にしてドイツ人達を見習えば良かったと悔やまれる。間もなくドイツ兵は帰国し、我々もまた汽車でロッキー山脈を越え、シアトルより船で帰国する事になった。
 我々はアメリカ本土を彼方此方と移動させられた。そして見た物は方々に積み上げられた鉄屑の山だった。何と資源の有る国は大した物だと感心させられた。広大な国土の割に人工が少ないせいなのだろうか、鉄道の駅員は皆老人か婦人が多いのにも驚かされた。大きな駅に停車すると子供達が集まってきて口々に「シュガー、シュガー」と言いながら手を出してくる。砂糖が不足しているらしい。汽車の中で支給される缶詰の中のコーヒー用の角砂糖だけを取り上げて昇降口から掃き出してしまう。子供達はそれを拾いに集まって来るのだ。アメリカでは男手が少なく、資源はあってもそれを生産する労働力が足りないらしい。

   帰還

 心ならずも生き延びて虜囚の辱めを受ける身となった我々はこのまま日本に帰還するのを潔しとはしなかった。アメリカ国内を汽車で転々と移動する都度、我々をブラジルに送って呉れぬかとアメリカ兵に頼んだが受け入れては貰えなかった。「お前達は大事な送還者なのだ。一旦、日本へ帰ってから出直して来なさい。」と言われた。
 昭和二十一年二月、洋上より富士山を見、九里浜に上陸。二度と踏めぬと想い続けていた内地の土を踏んだ。
 帰国してからも亡き戦友を想わぬ日は一日とて無かった。空を見てはテニアンの空を想い、川面を見てはテニアンの海を想う。食事の度に心に涙し、一杯の水に胸を熱くするものがあった。タバコを止め、酒も控えてひたすら戦友の御霊に祈る。心に熱く焼き付けられた十字架を抱きつ。
 昭和五十一年、今は亡き各隊々長の奥様方の御臨席の元、拙宅にて三十三回忌法要を執り行う事が出来た。出家していた長男も檀那寺御住と共に回向を手向けて呉れた。平成四年、念願であった慰霊碑を建立。平成五年、五十回忌慰霊祭を挙行。

   想うこと

 「敵に勝つ為には敵を知れ。」米軍はこの言葉を常に口にしていた。今にして思えば先の戦争はこの言葉通りに終始していた。米軍は日本の暗号を解読し、日本軍の機先を制したのみならず、日本の国情をも熟知していた。日本の占領計画さえ立案されていたという。日本は戦う前に負けていたのだ。日本を、日本人を研究し尽くしたアメリカに比べ、日本は国民の耳目に蓋をし、精神論のみを振りかざして立ち向かった。無謀と言うも愚かであった。その愚かさが国民を塗炭の苦しみに追いやったのだ。物量に於いてもそうだった。資源の豊富なアメリカに比較し、南方方面に広く薄く手を広げ、少しづつでも資源を確保しながら戦争を遂行するという方法は綱渡り的でさえあった。最前線に戦力を集中し、後方は武器弾薬も乏しく、卵のように殻を割られてしまえば中は脆弱なばかりであった。その脆弱な白身がテニアンであった。
 昭和十九年二月の空襲時まではテニアンの飛行場には常時八百機から九百機の飛行機が駐機していた。しかし、次々と来襲する米軍機の前に次第に少なくなっていった。搭乗員も不足し、訓練途中のやっと飛行機を飛ばせるようになったばかりの彼等も米機動部隊の攻撃に飛び立って行ったまま帰るものは無く、米軍上陸時には只の一機も見られなかった。
 陸軍に配属された十両の戦車にしても而り。米戦車の三分の一の装甲しか無く、米軍歩兵の携帯するバズーカ砲で簡単に破壊されてしまう有り様だった。
 海軍の海岸要塞砲にしても十五糎法は日露戦争当時、東郷平八郎連合艦隊司令長官の旗艦「三笠」の主砲と同じ旧式のアン式砲で、大正の初期の製造であった。三年式十二糎砲も同様に古い物だった。米軍の軍艦の大砲は殆どの艦が自動ベルトコンベアーを装備し、艦の弾薬庫より砲まで砲弾が自動的に送られていた。我々は自分の手で砲弾を運び、手で砲身に込めていたのだ。我々の砲が一発発射する間に米艦はボタン一つで十二門の砲が一斉に火を吹くという電令発射装置さえ備えていたのだ。蟷螂の斧とは我々の事だった。
 兵卒の持つ小銃でも、我々の物は五発込めで一発づつしか発射出来なかった旧式な銃であった。彼等のは自動小銃であり、最低でも八連発可能な銃を歩兵の誰もが持っていた。我々が一発打つと彼等は八発は撃ち返せるのである。彼我の差は何倍もあったのだ。
 テニアン守備隊の上層部、特に第一航空艦隊・角田司令長官や陸軍の五十連隊・緒方連隊長と海軍の大家司令、陸海空の各隊長級、また戦争経験のある古参の下士官等はこの戦争の行方は大体わかっていたような気もするが、我々兵は立派に戦死すれば日本はこの戦争に勝つという迷信にも似た信念を持っており、玉砕という美名に自分から酔っていたのだ。全兵員が気力のみ、精神力のみで戦っていた。

 敗戦、復興、成長、経済大国となった現在の日本の姿。この姿を見る事無く散って逝った若者達。平和な日本、繁栄する日本を望んでいた彼等。太平洋の防波堤となるべく我が身を挺した軍人、軍属、民間人の方々。果たして日本はあなた方の望んだ通りになったでしょうか。瞑目し、御霊の平安を祈るのみ。

第三部 各隊編

   西砲台・及川砲台の最期

 及川砲台と隊員は増員隊として昭和十九年四月一日の予定が二日遅れ、三日になって横須賀港を出航した。
 三十隻という大船団の中に及川隊全員の乗船があった。途中米潜水艦の魚雷攻撃により「美作丸」他三隻が甚大な被害を受けたが及川隊の乗船は魚雷をかわして危うくサイパンに入港することが出来た。サイパンより直ちにテニアンに上陸、警備隊に編入され、西砲台新湊に砲座の基礎工事を急いだ。毎日珊瑚のリーフにハッパをかけ、三門の基礎が完成すると砲鞍を取り付け、砲身を載せ、やっと米艦船の来襲に備えることが出来た。及川砲台は平地に構築したため、頭上に何の遮蔽物もなく空からの攻撃には無防備に近かった。
 隊長の及川中尉は髭の濃い中年に近い格好の将校で、隊長付きの清水一水に顔にカミソリをあてて貰ったり、付近の農家のニワトリを料理して食べるなどしていた。そんなのどかな情景も長くは続かなかった。
 昭和十九年七月二十日過ぎ、テニアンは米軍の猛攻に晒される。
 海からは米艦隊からの猛烈な艦砲射撃、空からは艦載機の雨あられの爆撃、陸からもサイパン南端アギガンよりの百数十門の火砲の砲撃、砂糖黍畑もジャングルも焼かれ、及川砲台も陸軍の麻生隊のトーチカも丸裸にされ、この一帯のウネハーブ、ウネチューロ及び新添の海岸砲は全滅に近い打撃を受け、及川隊々員は次々と戦死し、特に及川隊の若い志願兵の土井兵長は米軍機よりの直撃弾を受け、下半身の中身が全部飛び出すというような壮烈な戦死を遂げた。
 及川砲台がこのような悲惨な最期を迎えたのは、緒戦の米艦隊との砲撃戦に於いて、この砲台の全砲が命中弾を米艦船に打ち込んだ為、米軍の攻撃を集中して受けてしまった為である。及川砲台の一門などはあまりにも激しく砲撃したため、砲鞍が浮き上がるほどであった。
 及川砲台の隊長付きであった清水一水はこの模様をカロリナスの司令部に報告に行くよう伝令を命ぜられた。夜のみの行動であった。米軍の打ち上げる照明弾の明かりをリーフの山かげに避け、二晩あまりかけて無事に司令部に辿り着き、報告を終えて帰隊しようとすると、及川隊の方角が真昼のような明るさ。米軍がウネハーブの砂浜、陸軍の麻生隊の正面より上陸したらしい。麻生隊は前日の艦砲射撃で既に壊滅しており、生存者は一兵たりとも無かったという。
 カロリナス南端から及川砲台までは徒歩で三時間も有れば到着する筈が、米上陸軍の援護射撃の猛烈さと五キロのサイパン水道を飛び越え米上陸軍の前方、ラソ山方面へのサイパンよりの砲撃のすさまじさと、間欠的に打ち上げる照明弾の明るさに清水一水はカーヒー方面へ進むも出来ず退くもならず、カロリナス下の二本椰子柴田砲台近くの崖下に身を隠して様子をうかがっていると付近に人の気配がする。近付くと海軍の軍医で中尉か大尉らしい。ソンソンの裏手の野戦病院よりカロリナスへ後退の途中の様子。よく見るとどうも見たことのある顔だ。その筈で及川隊がテニアンに上陸して間もなく、沸かしたものなら良かろうと塩辛いテニアンの水を多量に飲んでひどい腸炎をおこし、南洋興発の病院に入院した折り診察を受けた軍医殿なのだ。偶然とは云えよく出会えたものだ。
 しかしその軍医は手に拳銃を持って、「俺はこの場所で自決する」と云って柴田砲台裏手の崖の割れ目に入り、「お前は近くへ寄るな」と言う。彼が遠ざかるや引き金を引いた。自決したこの軍医は埼玉県の出身で彼の後継者が志木市に大きな病院を開業しておられるそうです。
 目の前で軍医に自決されてしまった清水一水は途方に呉れる思いがした。自分はこれからどうしたら良いのだろう。命令を下すべき士官も下士官も居ない。途方に呉れたままカロリナス台上を弾幕を避けながら歩いた。七月三十一日の警備隊司令部の総突撃も彼には知る由もなかった。
 数日後、彼は我々と出会うことになる。この時から最後の司令部となったカロリナスの洞窟での三名、相良、高野、清水、そして永田様の遺骨、の敗残兵生活が始まる。清水一水は負傷もしており、栄養失調で足の裏の土踏まずが丸く腫れ上がり、歩くのもやっとの状態で、二人で彼をかばいながら終戦近くまで頑張った。
 明日こそは手持ちの手榴弾で自決しようと皆で心を決めるも、いや、日本の連合艦隊が必ずサイパン、テニアンを奪回しに来るものと自決を思いとどまり、あと一日生きよう、明日こそは友軍が来る、もう一日生き延びようとの毎日。もうテニアンには将校は一人も生き残っては居ないだろう。もし一人でも残っていれば少しは情報が入るだろうに。
 テニアン島での戦死者のほとんどは、隣のサイパン島の姿の見えぬ数百門の火砲に粉砕されたか、あるいは自決した者である。我々も同じ運命を辿るのか。

   海軍第八十二防空隊・田中高角砲隊

 テニアン守備隊・田中隊の迎撃体制は昭和十九年二月の初空襲には間に合わず、六月十一日の大空襲には高角砲と高射機関銃の設置はなんとか間に合わせる事が出来た。
 空を埋め尽くす米軍機に高角砲と高射機関銃は突っ込んで来るグラマンとそれぞれ一騎打ちを演じていた。グラマンの機銃に射手の右腕の関節が打ち砕かれ、皮一枚を残してダラリと垂れ下がり、「誰か腕を切り落としてくれ、重くて仕様がない、」等と叫ぶ射手も大勢いた。次々と突っ込んで来るグラマンに大勢の射手が負傷し、重傷を負った者は次の兵と交代して怯むことなく敵戦闘機に挑んでいった。
 田中高角砲隊は第二飛行場付近の守りに就いていた為に米軍機の格好の目標にされ、空からの攻撃とサイパンからの長距離砲の攻撃に晒され、隊員の七、八割は戦死、砲台は壊滅してしまった。防空用の探照灯はシートを被ったまま使わずじまいだったらしい。この戦闘では十四、五機のグラマンを撃墜したと言うことである。
 この戦闘の模様は飛行場の地上要員の下士官が見ていて、内地に帰ってから私に話してくれたものである。
 その後の田中隊の残存兵は米軍の上陸と共に散り散りになって戦い、内地に帰った者は一人もいない。

   長峰松二二等兵曹を想う(田中高角砲隊)

 栃木県鹿沼市出身の長峰松二・二等兵曹は昭和十七年夏、横須賀第二武山海兵団に入団、教育を終えて横須賀海兵団に配属された。暫くして輸送船の乗員を命ぜられ、航空隊要員や地上部隊をサイパン、テニアンに送り届けて帰団した。
 当時、彼の夫人は妊娠三カ月であったが、彼はそれをも知らず軍務に精励し、水兵長になって横須賀の追浜に下宿を許可された。夫人のハマさんも二回ほど下宿先に面会に行き、様々相談などされたされたという。
 入団時、彼は独身であったが、サイパンに上陸した折、彼の上官との話の中に彼とハマさんとの恋愛の話が出、その上官の勧めで入籍することになったという。
 昭和十九年三月末、夫人はよちよち歩きの洋子ちゃんを連れて来たが、長峰水長は可愛い盛りの我が娘を目に入れても痛くないほどの可愛がり様だったという。
これが長峰水長との永遠の離別であった。夫は死地に赴き、妻子は留守宅に。
 長峰水長は同年四月一日、出発予定が二日遅れて三日に正式出航となり、途中米潜水艦の魚雷攻撃を受け、同船団の美作丸ほか二隻は沈没し、海防艦に救助された乗員のうち負傷兵はグァムの海軍病院へ収容された。
 テニアンに着くと田中高角砲隊(十二糎高角砲)に編入され、米軍が来襲するや米戦闘機と交戦、一機を撃墜した。後から到着した田中隊の増員隊と共に壮烈な戦いを繰り広げ、隊長は戦死、生き残った者も佐藤分隊士の指揮のもと全員戦死を遂げたものと思われる。
 長峰水長は田中隊にあって中堅のバリバリの現役であり、働き盛りのあたら若い身をテニアンの野に晒したのである。
 夫に戦死されたハマさんは家業の生花店を切り盛りしながら娘の洋子ちゃんを立派に育て上げ、現在は娘さん御夫婦とお孫さん達に囲まれ、二階のお仏壇に亡夫を偲んでおられます。
 ハマさんは慰霊団にも参加され、「平和観音讃仰和讃」を唱和されました。
 念仏の悲しい響きはテニアンの空に広がり、地にも染み込み、目の前に亡き人々の面影を浮かび上がらせたのでした。

   上野孝一上曹を偲ぶ(田中高角砲隊)

 上野孝一上曹は栃木県下都賀郡桑村に上野一郎氏の長男として生まれ、現役徴兵として横須賀海兵団に入団し、海兵団の教育を終えた後、海軍砲術学校に進んだほどの優秀な海軍下士官であった。彼もまたテニアンに配属され、海軍第五十六警備隊・田中高角砲隊に所属した。田中隊では高角砲の砲長か射手を努めていたらしい。
 テニアンに米軍が迫るや、空を覆うグラマン戦闘機と交戦、一機を撃墜し、尚も砲撃を続けたが、雲霞の如き敵戦闘機の陸続たる爆撃の前に、むき出しの高角砲陣地は無惨な姿となって田中隊の勇士達の多くは此処に最期を遂げた。
 残存の田中隊兵士も七月三十一日の司令部の総突撃か八月二日迄の第一航空艦隊の最後の突撃に於いて戦死したものと思われる。
 上野上曹の弟である上野清氏は兄の遺志を継いで実家を守り、小山市の市議会議員としても活躍されております。清氏は慰霊団にも幾度も参加され、供養の誠を尽くしておられます。現在は家業を御子息に託され、親子で各方面に活躍されております。

   若田部重太郎上水のこと(田中高角砲隊)

 田中隊所属の若田部重太郎上水は栃木県佐野市の出身である。三十七才という年齢は兵隊としては既に老兵と言うにふさわしく、勿論妻もあれば十才を頭として一男三女を儲けていた。しかし、戦況の急迫はそんな彼をも戦場に駆り立ててゆく。
 出征の時、「二年もすれば帰ってくるから後を頼む」と妻に言い残し、九里浜で訓練を受けることになった。九里浜での海軍生活は彼にとって相当に辛く、駆け足の行軍など若い兵隊との共同生活は大変であったらしい。間もなく南方方面行きの要員が不足したため、彼も南の島テニアンに派遣されることになった。
 テニアンでは第五十六警備隊・田中高角砲隊に配属され、群がる米軍機を相手に奮闘するのだが、他の隊員同様、彼もまた二度と内地の土を踏むことはなかった。
 テニアンは玉砕の島である。生存者も数えるほどで、戦死者の多くは米軍がブルドーザーで大穴を掘ってまとめて埋葬してしまっているため、遺体の確認は極めて困難である。しかし若田部上水は例外であった。
 昭和二十七年、現東京商船大の学生が練習船「日本丸」にて第一回のマリアナ群島の遺骨収拾を行った際、テニアンに上陸した元南洋興発社員の藤井氏や学生によって収拾された中に若田部上水の遺骨が確認されたのである。遺骨の履いていた軍靴に若田部の名が刻まれており、厚生省の調べでテニアンの海軍部隊に同性の者は見当たらないということであった。その名前は九里浜にいた時に盗難防止のため、若田部上水が刻んだものらしい。
 彼の遺骨は収容され、彼の軍靴は日本に持ち帰られ遺族の元に返された。御遺族はその軍靴を今でも大切に仏壇におまつりしておられる由。因みにこの時名前の判明した遺骨は七体あったそうである。
 若田部上水の留守を預かったタケ夫人は七反あまりの小作地を必死に耕して子供を育て、現在も元気に過ごしておられるとのことである。

   田中高角砲隊・八十三防空隊(増援隊)

 八十三防空隊・田中高角砲隊は増員隊として昭和十九年七月上旬、テニアン島に上陸した。十二糎高角砲四門と高射二連装機銃四門を陸揚げし、カロリナス台地の一端に対空陣地を構築した。ところが高角砲四門の据付けが終わるか終わらぬかの内に米軍機の空襲を受け、田中隊長は二連装高射機関銃を四門と部下を連れてマルポー方面の防空の任に着いた。残された田中高角砲隊員は分隊士、佐藤兵曹長が砲台長として指揮を執り、米軍機と壮烈な撃ち合いを演じた。次々と波状攻撃を掛けて来る敵機グラマンとの一騎打ちでは一機を撃墜するも衆寡敵せず、砲台員は次々と弊れ、ほぼ全滅という有様だった。完成途中の砲台も活躍する場も無く壊滅してしまった。マルポー方面に別れた田中隊長の隊も同様の悲運に見舞われた。真っ直ぐに突っ込んでくる米機に照準を合わせ、互いに猛烈に撃ち合うのだ。射手は米機の機銃に次々撃ち抜かれ、皮一枚残して腕を砕かれる者などバタバタと倒れ、ほとんどの隊員が戦死、あるいは重傷を負うなど地獄絵図そのままの状況を現出していった。

   荒川始上水を悼む(田中高角砲隊・八十三防空隊)

 荒川始上水は栃木県下都賀郡三鴨村に荒川浅次郎氏の長男として生まれる。昭和十八年五月に横須賀海兵団に入団、初期教育のみを受け上海陸戦隊に編入される。そこで毎日厳しい陸上の戦闘訓練を受け、昭和十九年始めに横須賀海兵団に帰団した。
 時に南方戦線は風雲急を告げ、戦線の強化が急がれていた。帰団して間もない荒川上水もまた南方へ派遣される事になった。昭和十九年七月、彼を乗せた輸送船団は米潜水艦の攻撃をかいくぐり、無事テニアンに上陸した。テニアンでは第五十六警備隊の田中高角砲隊に増員隊として配属され、砲台の構築に汗を流した。しかし砲台の整備が終わらぬ内にテニアンは米軍の来襲を迎えてしまった。
 田中高角砲隊の陣地はカロリナスの高台に構築されたため、米艦載機の格好の目標となってしまい、猛爆撃を受けて高角砲の砲身はむき出しになり、連日の爆撃に砲台の陣頭指揮を執っていた田中隊長は戦死、直ちに佐藤健雄分隊士が隊長代理となって残存の田中隊を指揮、ひるむことなく米機と交戦を続けるもサイパン南端の百門以上の砲列より打ち出す砲弾に打ち砕かれ、田中隊のほとんどが戦死、佐藤小隊長、荒川上水も壮烈な戦死を遂げてしまった。
 この時点で生き残った田中隊員は僅かに数名のみ、この数名も七月三十一日の最後の総突撃で第五十六警備隊大家司令と共に米戦車群に肉弾攻撃を敢行、全滅してしまった。
 荒川上水の弟正次氏は横須賀海軍工廠に軍属として徴用され、後に水戸の陸軍工兵連隊に入隊し、満州に派遣された。終戦となってシベリアに抑留され、復員後はトモ夫人と共に家業の米菓業を営み、兄の遺志を立派に継がれている。荒川上水、以て瞑すべし。因みに「ささら橋せんべい本舗」は創業百年の老舗である。

   間庭上水のこと

 昭和十九年四月一日出航予定の船団は二日遅れ、四月三日に横須賀港を正式出航した。米潜水艦の攻撃を極度に警戒しながらマリアナ諸島に向けて航行を続けていたが、四月九日午後四時過ぎ、ついに米潜水艦に発見された。船団は当時の日本を擧げての大小合わせて三十隻もあっただろうかと思う。
 この米潜水艦の攻撃で「美作丸」他三艦が魚雷の命中弾を受けた。「美作丸」には陸軍と海軍の混成部隊が乗船しており、海軍の海防艦に助けられた。海防艦から広い板割りを渡し、美作丸から兵員が手伝い、負傷兵を順次海防艦へ移した。この中に間庭上水がおり、船内の火災で負傷していた。田村上水等が心配しながら救助作業を行い、間庭上水はその他の負傷兵とともにグアムの病院へ入院した。
 間庭上水の火傷は順調に回復し、五月になってから、テニアンの航空隊地上要員となり、海軍の第二飛行場へ配属された。
 田村上水は第二飛行場勤務について間もなく、総員十七名のヤップ島向け補充要員に選考され、ヤップ島でからくも一命をとりとめ、内地へ帰国した。(現在存命)
 テニアン戦で航空隊は散り散りとなり、サイパンからの長距離砲の着弾により次々と仲間が戦死した。間庭上水は我々と共にカロリナスへ後退したが、ライオン岩の付近で守備隊と共に玉砕したものと思われる。
 頭の良い優秀な兵が姿の見えない海の向こう、サイパンよりの集中射撃の砲弾のによって粉々になって戦死するのです。日本の上層部の方々は、この様な戦争を予想していたでしょうか。
 テニアンの日本軍の悲愴な最期はこの時点で、米軍がウネハーブに上陸する前から決まっていたような気がしていました。
 刑部上水、平野兵曹、間庭上水、西海石水長。久留米上水、鈴木兵曹、杉本砲長、他の皆様さようなら。
 間庭上水の御遺族である娘さんがお孫さんを連れて、二度ほどテニアンへお参りに行かれました。久留米上水も御遺族がテニアンへお参りに行かれ、戦死者を弔う「平和観音讃仰和讃」をあふるる涙を抑え、声を限りに詠唱されておりました。

   二本ヤシ柴田砲台の最期(小川隊・柴田砲台)

 昭和十九年七月二十四日、小川、柴田両砲台と米艦との激烈な砲撃戦、駆逐艦一隻撃沈、巡洋艦一隻大波の戦果を挙げるも、サイパンより回航の米機動部隊の猛反撃により両砲台とも壊滅的打撃を受けた。
 柴田両砲台には砲術学校出の優秀な下士官が大勢いた。茨城出身の鈴木重正兵曹もその一人で砲の射手をしており、隊の甲板下士官も務めていた。秋田出身の藤田松治郎兵曹は砲長をしており、米巡洋艦との撃ち合いには、連続発射のため砲身にひびが入り、発射不能となる砲もあった。
 この砲撃戦の始まる前、栃木出身の西海石水長ともう一人の水兵が、砲台の裏手の小高い丘の大木の所で米艦船の見張りをしていたが、米艦の発射した砲弾がその大木に直撃してしまった。大木は根こそぎ吹き飛ばされ、もう一人の水兵は大木もろともばらばらな肉片となり、壮烈な戦死を遂げてしまった。
 西海石水長も両足切断という重傷を負い、三、四名の兵士が見守る中、水筒からの水を戦友が口に当てると、一口、二口飲み込み息を引き取った。壮烈かつ立派な最期を遂げたという。これは私が陸戦隊要員となり、小川砲台よりカロリナスへ後退する途中で藤田兵曹と会い、その時聞いた話である。
 その後、柴田砲台は米艦の砲撃により壊滅的打撃を受けたが、米軍上陸の報に接するや、柴田隊長が先頭になり、白鉢巻で抜刀し、生き残った者全員が肉弾で敵戦車に立ち向かい、全員が戦死してしまった。
 重傷を負っていた藤田兵曹だけは海岸に降り、海水で傷口を洗い、敗残兵として一年近く過ごした後、内地へ帰り秋田で亡くなっている。
 小川隊で負傷し、日本へ帰国できた者は二百名中二名のみであった。
 栃木出身の久留生上水は二本ヤシに小川隊の本部があった当時、夜になると私と郷里の話などをしながら、昼の残り飯を分け合って食べておりましたが、その彼も米軍上陸後、米戦車に突っ込み、戦死してしまったと言うことです。
 テニアンの残存兵のうち、その後に夜の切り込み隊に参加して帰らぬ者も多く、自決した者も相当数いました。死にきれずに敗残兵をしている自分を、幾度情けなく思ったか知れません。一度自決をし損なった者は後ではなかなか死にきれないものなのです。米軍に撃たれて死のうと思い、何時もチャンスを待っておりました。腰の手榴弾の安全栓が錆びないように、何度も別の小枝に取り替え、何時でも発火できるように気をつかっていました。

   茂木恒雄上水の武勇
    (二本ヤシ柴田砲台)

 テニアンに米軍が上陸した昭和十九年七月三十日頃かと思うが、米戦車群がマルポー水源池を越して小川隊二本ヤシ柴田砲台に向かって進行を始めた。柴田砲台では隊長の柴田中尉が白鉢巻に抜刀、藤田兵曹、鈴木兵曹以下残存兵が続き、米戦車群に突撃を敢行、重傷を負った藤田兵曹を除く全員が戦死してしまった。
 この柴田隊の戦死者の中に茂木上水が死んだ振りを装っていた。米戦車をやり過ごした彼は手榴弾の安全栓をそっと抜き、前方を警戒して停止した戦車に飛び乗り、戦車がハッチを開けるや中に手榴弾を投げ込んだ。素早く戦車を飛び降りると近くのリーフの岩陰に身を潜め、別の戦車がこれに気付いて砲塔を向ける隙に駆け出して危うく一命を取り止めた。
 茂木上水は死を覚悟で米戦車に立ち向かい一輌を仕止めてしまったのである。勇敢というか無茶というか大変な日本海軍水兵である。
 彼はテニアンで生き残り、内地に帰ると東京の台東区で柱一本に焼けたトタン板で建てたバラックに住んでおり、私と高野(現森岡)が彼を訪ねた時は彼の奥様が小豆を甘く煮てもてなして頂いたのは今でも忘れられない思い出です。
 その後彼は努力してトラックを三台も持ち、運送店を経営していたが先年亡くなり、現在は御子息達が跡を継いでおられるものと思います。

   小林五三朗一曹のこと(小川隊)

 小林五三朗一曹は栃木県大田原市佐久山の出身である。昭和十七年、水兵長であった彼は一旦郷里に帰っていたが、間もなく再度徴集され、昭和十八年、横須賀海兵団隣の水雷学校に入校、卒業すると遠洋航海に出た。上海、桑港、サイパン等を廻り、横須賀海兵団に帰団して陸戦隊員となり、後に二等兵曹に昇進した。
 昭和十九年二月末、南方方面の陸戦隊要員となった彼は内地を後にし、死地に赴くことになる。
 彼を乗せた三隻の輸送船団は二隻のキャッチャーボートに護衛され、横須賀港を出航した。東京湾を出るやいなや米潜水艦の出迎えを受けた。米潜水艦は日本軍の対潜攻撃を避け、外洋で攻撃を仕掛けて来るのである。
 からくも米潜水艦の攻撃をかわした船団は小笠原諸島は父島の湾内に滑り込んで敵の目を眩ましたが、硫黄島付近に差し掛かってまたもや米潜水艦に発見され、魚雷攻撃を受けた。三隻の内、林丸は撃沈され、残った二隻も護衛艦の無い丸裸の状態でやっとの思いでサイパンに着いた。
 サイパンに着いて間もなくテニアンに渡った彼は海軍第五十六警備隊・小川隊に配属された。小川隊の海岸砲台員になった彼は米艦隊と壮烈な撃ち合いをするも敵の猛攻の前に砲台は沈黙させられ、ここで生き残った彼もカロリナスの戦闘で敢えなく最期を遂げてしまった。
 夫の戦死後、小林五三朗一曹の夫人サト様は二男二女の遺児を抱え、婚家の佐久山で古着の行商等、あらゆる商売をして艱難辛苦の上四人の子供を育てあげ、家を守り抜いたと言うことです。
 晩年は長男一夫氏(故人)の世話になり、テニアン慰霊団にも参加され、次男の邦雄氏御夫妻も慰霊団に参加され、亡き父の御霊に祈られました。

   陸軍の麻生隊

 テニアン守備隊は米軍の来襲に備え、上陸可能な海岸を選定し、防御陣地を構築する必要に迫られた。選ばれたのが島の北側のアシーガの浜であった。前記の海岸砲・及川十二糎砲台の右手にも百米弱の砂浜があったが、この狭い場所よりウネハーブの浜の方が可能性が高いとの判断である。
 この方面に配置されたのが陸軍五十連隊の主力、麻生隊である。麻生隊はここにトーチカを構築し米軍の上陸に備えた。そして米軍はまさに此処、ウネハーブに上陸してきたのである。
 上陸前の米軍の艦砲射撃はすさまじく、狭いウネハーブ前面の相当堅固なトーチカも南側の急ごしらえの土のトーチカも壊滅し、米上陸軍と戦う前に全ての麻生隊員が戦死してしまった。壮烈というも愚か、無惨な戦死を遂げてしまったのである。
 米軍の上陸を関知した及川隊の残存兵、陸軍のラソ山西側方面の隊、ハゴイ地区の隊、チューロ付近の隊等が急遽応援に駆けつけたが時すでに遅く、麻生隊は全滅、及川隊も全滅、ラソ山西側の隊も正面より攻撃を掛けた為バタバタと戦死。米軍の艦砲の援護射撃によって戦いは決してしまった。米軍の上陸を許してから日本の守備隊は後退するばかりであった。上陸後の戦線はラソ山付近に移動するのだが、その付近の戦闘について詳細を知る者がいないのは無念なことである。
 今回の五十回忌法要慰霊団に和歌山から参加されていた藤井久代様は麻生隊の御遺族で、再度のテニアン慰霊とのこと、胸中お察し申し上げます。

   第一航空艦隊

 第一航空艦隊は当時の日本海軍が最大の期待を持って編成された海軍航空隊の集団である。
 昭和十九年二月、テニアン北部に基地司令部を置き、戦闘機、艦上爆撃機、偵察機、中型攻撃機、陸上攻撃機等、当時の海軍の新鋭機の全てが揃えられ、常時八百機から千機を保有していた。これを別名、基地航空艦隊と呼んだ。
 テニアン北部に第一飛行場、その南に第二飛行場、第一飛行場の隣に第四飛行場、そしてマルポー水源地の近くに第三飛行場をも造成を計画していた。この周囲五十キロの小さなテニアン島が浮沈空母と呼ばれたのも頷かれよう。
 しかし、偉容を誇ったこの第一航空艦隊も米軍の来襲の前に敢えなく潰え去ってゆく。
 体制の整わぬうちに敵襲を受けた第一航空艦隊は連日連夜の出撃に次々と航空機を失い、
翼を失った海鷲達は地上要員と共に海軍陸戦隊となって米上陸軍に立ち向かって行った。
 ラソ山付近とカロリナス台上にて米戦車群に突撃を繰り返したが、圧倒的軍容を誇る米軍にじりじりと押され、第一航空艦隊最後の司令部となったカロリナスの洞窟前方にて最後の肉弾突撃を敢行、ここに第一航空艦隊は玉砕する。時に、昭和十九年八月二日のことである。

第四部 テニアン民間人の悲劇

   あゝ小沼巳子先生

 小沼巳子先生は栃木県那須郡親園村南区、小沼民十郎氏の三男として生まれた。小沼民十郎氏は旧親園村長を務めた名門名家の出身である。民十朗氏は十人からの子沢山であったため、巳子先生は小学校三年から五年まで、遠縁に当たる大田原町の日蓮宗正法寺に僧侶の小僧見習いとして預けられた。(当時としては、口減らしの為らしかったが、)冬は冷たい寒風の中、冷水で手を真っ赤にして板場や庫裏の雑巾掛けや掃除等を毎日やらされていた。それを祖父が見て、何しろ未だ九才の幼い子どものこと故、かわいそうにと思い、実家に連れ戻そうと家に帰り皆と相談した。すると、一番不憫に思う筈のその母が、「それが修行なのだ。」と言う。皆唖然として、「この母にてこの子あり。」と思い、連れ戻すことは断念した。
 間もなく三年間の修行を終えた巳子先生は向学心に燃えていた子ども故、三年間のブランクをも乗り越え、見事に師範学校に合格、師範学校を終えると直ちに、黒磯国民学校に奉職した。やがて西那須野町南国民学校へ転校を命ぜられたが、氏自身はこの転校命令を左遷と思い、自ら辞表を提出し、自宅にて模索の日々を送っていた。その時期に南洋のテニアン島の国民学校教員の話があり、勇躍テニアン島に渡った。
 当時のテニアン島は、良質の砂糖キビの生産により、東洋一と言われた南洋興発会社の製糖工場があった。スペイン風に見える町並みに様々な商店が並び、活況を呈していた。小沼巳子先生はテニアン上陸後、カーヒー国民学校に着任し、福島県人・韓国人・沖縄県人の子供達に日本の義務教育を教えることになった。
 テニアン駐留の第一航空艦隊第二飛行場の鳶部隊の工作科・金属工作の森島愛守兵曹長(栃木県烏山町に存命)とは特に仲が良く、時々トドロキ酒等を持ち寄って飲み交わしたと言う。
 昭和十九年六月十二日。延べ三百機の米艦載機が本格的な爆撃をテニアン全島へ繰り返し、第二飛行場も潰滅的打撃を受け、小沼先生と森島兵曹長は分かれ分かれになり、小沼先生達は全員が陸軍の軍属として軍人と行動を共にするようになった。当時のテニアン在住の教員と警察官は内地とは違った特別待遇であり、半任官待遇であった。
 この時までカーヒーの学校の裏で農業に従事し、時々学校へ寄っては先生達と茶飲み話をしていた遠藤晴美氏(福島県摩耶郡山都町在住・生存)にもそれからの先生達の行動は遥としてて分からず、ラソ山付近の戦闘か最後のカロリナスにて玉砕したものか、教え子達と再会することはありませんでした。立派に戦死されたものと思われます。
 小沼先生一家は教育一家でした。現在大田原市教育長として活躍しておられる小沼隆氏は十番目の弟。市内の間庭家に養子になられた元大田原小学校長の間庭堅男氏は五番目の弟です。長兄の小沼平重氏は故人となり、次兄の正寿氏は八十歳になられ、元気に各方面に活躍しておられます。正寿氏の御子息は整骨医として開業しておられます。平重氏と正寿氏は二度ほどテニアン島に慰霊に参られております。
 優秀なテニアン在住の官民の人達を亡くしたのは返す返すも残念なことです。警備隊司令大家悟一大佐が、「我々軍人はなるべく民間人を助ける様にしたい、民間人は一人でも多く助けたい、民間人は一人でも多く生かしたい。」と口にしておられたのを、最後のカロリナスの司令部洞窟に居合わせた高野が、今でも話しております。
 電信員の高野利江氏(福島県原町市橋本町在住、現姓森岡)が、最後に日本に打電した電文は、「我が警備隊は、午後零時零五分、最期の突撃を敢行す。祖国の安泰と平和を祈る。」だったそうです。彼はこの電文を今でも忘れずにおり、時々回想して心の糧にしておる一人であります。

   生江家の悲劇

 生江家は福島県会津の出身である。昭和八年頃、東北地方の特に福島県を襲った大凶作は大飢饉を招き、大勢の農耕民が途方に暮れていた。生江家の当主、市雄は南洋行きを決意した。当時のマリアナ諸島は日本の委任統治領で日本人が移住していたのである。
 昭和九年、妻のイツ子と共に故郷の会津を出発してテニアンへ旅立った。
 テニアンに着いてからは南洋興発株式会社の工務課・西ハゴイ事務所に電気技師として勤務していた。それから数年は平穏な毎日が続き、一男四女の子供も出来た。
 子供達は近くのハゴイ池で魚採りに興じ、就学した子供達はウネハーブィの海岸へ海水浴に行ったり、暖かい南洋の生活を楽しんでいた。大人達にとっても故郷の会津地方の身に滲みる寒さを忘れさせる毎日であった。しかし、そんな生活も戦争という名の悪魔に踏み潰されて行く。
 昭和十九年二月、突然米軍の初空襲があった。長女のセツと次女の三七子はこの時から不安な気持ちを抑えることが出来なかった。間もなく二回目の空襲があり、母親に連れられて二度ほどラソ山の防空壕に入った。それから間もなくして父の市雄は軍属に徴用され、軍と行を共にすることになり、家族とは別れなければならなかった。それが最後の別れとなった。父の市雄はラソ山での戦闘か、或いはカロリナスで集団自決したのか、父のその後の行動を知る者は無かった。
 昭和十九年四月、米軍はマリアナ諸島に迫っていた。婦女子のみ内地に帰還せよとの命令が発せられ、生江親子も内地に帰還することになった。小舟でサイパンに渡り、サイパンからは貨物船で内地に向け出航した。船上では皆、テニアンの方を見つめ、生江親子もまた父親の無事を祈りつつ、後ろ髪を引かれる思いで旅立った。航海の途中、米潜水艦の攻撃をかわしてマリアナ諸島、小笠原諸島、伊豆諸島の方々の港に立ち寄り、一ヶ月ほど掛けて横浜に上陸することが出来た。
 その後の生江家の母子の苦労は筆舌に尽くせぬものであったと言う。元々故郷では暮らしが立たぬ故、外地の南洋に夢を託したのだ。そのささやかな夢も打ち砕かれ、大黒柱の父親は軍隊に取られて死処も解らぬまま五人の子供を女手一つで育てなければならなかったのだ。
 平成三年の慰霊団には長女のセツ様御夫妻、次女の三七子様御夫妻、三女の三八子様が参加され、カロリナスの守備隊最期の地とバンザイ岬にて亡き父を偲び、至心に供養された。セツ様は他の方と二人で戦死者を弔う「平和観音讃仰和讃」を詠唱され、涙されておりました。ハゴイ池近くの自宅のあった所では子供の頃の過ぎし日々を思い出し、父の御霊に香を手向け、内地から汲んできた水を供えてしばしの間祈られておりました。
 母のイツ子様は福島県の裏磐梯に御子息の展雄氏と暮らしておられます。亡夫の分まで長生きされますようお祈り申し上げます。

   節子(野田利勝氏の資料を含む)

 高橋節子(現姓安済)は父林平、母マツの長女である。ソンソン第一農区の家から火葬場近くの崖道を通ってテニアン小学校へ通学していた。昭和十九年の二月、四月、六月に米軍の空襲があり、急ぎ防空壕を造って壕生活を始めた。米軍の爆弾とナパーム弾は軍民を問わず雨あられと降り注ぎ、地上にある物は全て破壊され、焼き盡くされた。当時、高橋家では九才を頭に妹二人がおり、下の妹は病気がちでやがて病死し、次の妹も産後の肥立ちが悪く、防空壕の奥で死亡してしまった。母は身動き出来ないでいた。
 節子の父は友人の一ノ瀬に相談を持ちかけ、一ノ瀬の二つある防空壕の一つに移ることにした。お互い身動きの不自由な者がいては行動の自由が利かず、一緒にいる方が何かと都合が良かった。
 高橋の友人の一ノ瀬の家も同じ様な境遇にあった。悪夢の襲いかかるまで一ノ瀬家は南海の楽園、テニアン島で平和に暮らしていた。父と母、二男四女の子供達の八人の家族はカーヒー第三農区、テニアン火葬場の上北寄りに居を構え、砂糖黍を栽培していた。
 マリアナ諸島に米軍の影が射し始めるとテニアンに海軍航空隊基地の建設が始まり、基地海軍航空隊地上要員と設営隊が上陸し、飛行場造りが急ピッチで進められた。テニアンの民間人も進んで協力し、軍民の区別無く汗を流した。やがて東ハゴイ農区と西ハゴイ農区に亘って第一飛行場が完成、次いでカーヒーに向かって西側に第二飛行場も完成を見た。第三、第四飛行場は建設途上であった。
 昭和十九年に入ると二月に一回、四月にも米軍の空襲があり、全島の民間人は防空壕造りを急いだ。軍に協力したくとも自分達の身を守るのが精一杯という毎日が続いた。一ノ瀬家も毎日防空壕の生活が続き、母は子供達を前にし、「明日、日本の連合艦隊が来ない時は家族全員で自決をしよう」と思い詰めた顔で言うのだった。
 七月二十四日、遂に米軍が上陸して来た。日本軍の反撃に遭い、相当の犠牲を払いながらも艦砲と空爆の援護射撃により、ウネハーブィの海岸より強行上陸してしまったのだ。翌二十五日も日米両軍の死闘が続いた。二十六日、一ノ瀬親子が身を潜めていた防空壕は突然米兵に囲まれてしまった。父の熊喜氏は防空壕を出ようとしたところを米兵に撃たれ、手の肘と足の膝を負傷してしまった。暑い南洋のこと、傷口にはすぐに蛆が湧き、いくら取り除いても限りなく蛆が湧いて暫くはひどい状態が続いた。そんな折り、近くでやはり砂糖黍の栽培をしている知人が訪ねてきた。彼は、「もうだめだから、妻と子供を殺してきた。自分は死に切れなかった。一緒に死にたい。」と、呆然とした様子で語った。「自分達にその気は無い。安全な所に移るつもりだ。」と一ノ瀬が言うと、彼は気落ちした様子で去った。
 ここも安全ではないと悟った一ノ瀬は一緒に逃げようと、高橋家のいる防空壕に向かった。しかし、途中で米兵に発見され、取り巻かれてしまった。節子達がいた防空壕も囲まれてしまい、外から英語で「出て来なさい、」と言われた。父親は軍属としてゲートルを足に巻き、きちんと服装を整えて防空壕を出た。節子と父と一ノ瀬夫婦はすぐに米兵に捕らえられたが、節子の母は壕の中から出ることが出来なかった。節子の父は地面にあぐらをかいてしまい、てこでも動かぬ様子を見せた。一ノ瀬の次女と三女は米兵とは反対の方向に逃れたが、母が捕らえらるのを見た次女は母の所に駆け戻った。三女は林の中から様子を伺っていた。節子の父は相変わらずあぐらをかいたままだった。米兵は盛んに投降を勧めている様子だったが、彼は頑として言うことを聞かず、「私は日本の軍属だ。この胸を撃ってくれ。」と、何度も自分の胸を指している。米兵はなかなか意味が解らずにいたが、暫くして銃声がし、彼は胸を朱に染めて倒れた。米軍には彼の服装は軍人と見分けが付かなかったろうし、彼もまた軍人同様、いや、それ以上の気概と覚悟を持っていた。
 節子と一ノ瀬の家族は米兵に連行されて行った。第二飛行場を通りかかると既に大勢の米兵がブルドーザーで整備を始めていた。轟音を発てて動き廻るブルドーザーも節子には猛獣のように恐ろしかった。なすすべも無く連行されて行く節子は母のことが心配でたまらなかったが、どうせ自分も殺されてしまうのだという思いが彼女を悲しく救っていた。
 収容所に着くと煮えたぎるドラム缶の前に座らせられた。周りを銃剣を持った米兵が取り囲んでいた。やはり、と節子は思った。この中で煮殺されてしまうのか、今まで聞かされてきた事は本当だったのだ。
 飯を出されて節子達は呆気にとられた。「殺されない!」安堵の思いが一同によぎった。殺されないと知ると、母が居ないさびしさが急に込み上げてきた。それは先程の恐怖よりも節子の胸を締め付けた。
 林の中から節子の父が殺されるのを見ていた一ノ瀬の三女も米兵に発見されたが、彼女は子供ながらにも連行されるのを拒んだ。米兵が飴を出してなだめようとしたが、受け取ろうともしなかった。困った米兵は自分で飴をなめて見せ、やっと納得させることが出来た。節子はあとから連行されてきた彼女に父の最期を聞かされた。母の消息は不明だった。続々と収容されてくる人々の中に母の姿を求めたが、遂に見つけることが出来なかった。節子の母は従軍看護婦であった。夫の後を追い、壕内で自決したのかも知れない。九才の節子にとって、一人ぽっちになってしまった事を納得するには時間を掛けなければならなかった。
 節子達が収容されたのは仮設収容所であった。そこでは朝鮮人が床の上に、日本人は床の下に寝かされた。やがて本格的な収容所が建設され、そこに移ると御飯のオニギリが支給されたが、節子の食べるオニギリはいつも涙に濡れていた。節子は一ノ瀬家の人々に家族同様に可愛がられ、交際は内地に帰った現在も続いている。とりわけ三女の米子とは節子と年齢が近いこともあって姉妹同様の付き合いであるという。
 内地に帰った節子は菅野家に貰われて養女となった。長じて安済家に嫁してからもテニアン慰霊の話がある度に夫の深い理解もあって幾度と無く参加している。
 米軍が上陸して以来、数千の民間人はカロリナスを目指して逃れていった。追い詰められてバンザイ岬より身を投げた者、その数三千五百から四千名、洞窟に逃れ、米軍の爆弾や火炎放射機で最期を迎えた者、手榴弾で集団自決した者、その詳細は未だに不明である。逸話がある。家族と共に自決を決意した父親は、子供達を出刃包丁で次々と刺し殺した。年かさの息子が血の着いたその包丁につかまってイヤダ、イヤダと泣くのを無理に刺し殺し、自分も自決して果てたのである。洞窟に潜んでいた若い母親は、米兵に察知されるのを恐れた兵隊に泣き止まぬ赤ん坊を殺すよう、強いられた。これは実話である。テニアンではこの様な陰惨な光景が方々で繰り広げられたのである。玉砕の島に軍民の区別はなかった。

   バンザイ岬

 テニアンにもバンザイ岬がある。紺青の海から垂直に切り立った断崖で太平洋の怒涛が珊瑚の岩礁を咬んでいる。ここからはテニアン守備隊の最後の司令部となった洞窟のある絶壁を望むことが出来る。
 米軍の上陸、戦線の後退につれ、民間人もしだいに逃げ場を失い、或いはマルポー岬に、或いは後にバンザイ岬と名付けられるカロリナス台地下の断崖に追いつめられていった。絶望した彼らはためらうことなく断崖より身を投げた。ある老人は天皇陛下万歳を叫び、ある婦人は両わきに子供を抱え、またある婦人は乳飲み子を抱き、次々と身を投げた。それは数百人に及んだ。岩礁には累々と屍が重なり、海は真っ赤に染まった。身を投げた中に一人だけ助かった者がいた。あまりにも多くの人々が身を投げたために岩礁が死体で覆われ、その上に落ちて奇跡的に一命を取り止め米軍に救助されたという。
 勿論、追い詰められた全ての人が身を投げたわけではなく、降伏した者、逃げ遅れて捕らわれた者も大勢いた。彼らは収容所に容れられた。
 それにしても日本は何という教育をしたのだろう。「生きて虜囚の辱めを受けず」この戦陣訓は軍人のみならず民間人をも厳しく律してしまったのだ。



あとがき

 今年もまた夏がやってきた。暑い陽射しは私の裡なる戦場を呼び起こす。半世紀を経た今でも私の心の戦場は熱く燃えている。南冥の彼方のテニアンが私を呼んでいる。戦友が呼んでいる。
 毎年のように私はテニアンを訪れる。亡き戦友に会いに行くのだ。皆、故郷の話をしていた。いつも故郷の話だった。故郷の山や河、父や母のこと、兄弟や我が子のこと、南十字星の下、話は尽きることがなかった。皆、故郷に帰りたかったのだ。さあ、また会いに来ました。昔のように話をしよう。しかし、語り掛ける私に戦友は応えては呉れない。それでも私は話し掛ける。
 戦友の骨も出来るだけ御遺族にお返しした。慰霊の碑も建った。しかし、テニアンは死の島、屍の島なのだ。テニアンの土には一面に我が同士、我が戦友の血が染み、永遠に消えることはない。私の慰霊の旅は続く。
 私は朝一番に我が家の仏壇に一杯の水をあげる。この水がどんなに欲しかったことか、どんなに飲みたかったことか。我が家の先祖と共にテニアンの亡き戦友に捧げ、彼等の御霊の平安を祈る。あの時、この水があったなら、この一杯の水を彼等に飲ませてあげることが出来ていたなら。叶わぬ願いであったと知りながらも私の悔いる心は止むことがない。
 我々と行動を共にした戦友。洞窟内で僅かな水を飲むと眠るように息を引き取った横浜の永田氏、カロリナス南端で一個の水筒の水を皆で分け合って飲み、自決した刑部上水、二本ヤシ、柴田砲台の上で見張り中に敵弾を受け、最期に「水だけ、」とつぶやいた西海石水長、誰もが最後は「水」であった。
 テニアンを訪れる人々よ、若人よ、この本を読んだなら、あなた方のために血を流した者達がいた事を知ったなら、彼等のためにせめて一刻の祈りを捧げて欲しい。出来るなら一杯の水を捧げて欲しい。あなた方の青春は彼等には余りにも眩しすぎるのです。
 米機動部隊の来襲前にトラックで仕事をしていた頃、時々休憩させて頂いた民間の方々の顔が今でも目に浮かぶ。福島県の方々、沖縄の方々、幸い一昨年の慰霊団の中に福島県出身であった方々がおられ、半世紀ぶりにお会いすることが出来ました。当時テニアンで農業をされておられた山内セツ様、大村三七子様、鈴木三八子様、安斉節子様等々。同じくテニアンのカーヒーで農業をされておられ、今年の五十回忌に慰霊団員として参加された遠藤晴美様他、多数の方々。
 大家司令の「民間人は助けたい」との最期の言葉は報われ、多数の民間の方々が無事に内地に帰ることが出来ました。亡き大家司令に報告させて頂きます。
 私のテニアン訪問も十一回を数えました。まだまだ足腰の続く限り、私の慰霊の旅は続きます。テニアンは私の心の故郷。過酷な、しかし熱い命の故郷。
 この物語は四十九年の永きに渡り、私の脳裏に刻み込まれて一刻も忘れえぬものとなっていた真実の記録であります。もとより私にテニアン戦の全貌は知る由もなく、ここに記すことが出来たのは一兵士の目に焼き付いた、海軍第五十六警備隊、陸軍のごく一部、海軍航空隊の一部の方々の記録にとどまりますが、以上を以てしてもテニアン戦の地獄図絵を垣間みて頂けるものと思います。
 今までもテニアン慰霊の旅より帰る都度、この記録を残さなければとペンを執ったが何故か筆が進まず怪訝な思いでおりましたが、本年五十回忌を終えて帰ってみると筆が進むではありませんか。昨年は海軍第五十六警備隊の慰霊碑が建ち、今年は五十回忌の慰霊法要を終え、気持ちの整理がついたためでしょうか。あるいは亡き戦友の意志がそうさせたのかも知れません。
 この記録を残すことによって戦争の悲惨さと愚かさを知って頂き、空しく散っていった戦友の慰霊ともなれば望外の幸せであり、私に思い残すことはありません。

 平成六年春彼岸    遥かなるテニアンを偲びつつ


御礼とお詫び

 テニアンには現在までに数多くの慰霊団が訪れ、現地の方々にひとかたならぬお世話になっております。その度に快く乗り物を提供して下さり、案内役までお引き受け頂き、飲料や弁当の世話、宿泊所の世話、自宅に招いて歓待して頂いたこと、自分の仕事をさしおいても我々に協力して頂いたこと、裕福でもないのに自分の畑で採れた果物をトラックに山ほど積んで来て我々に食べさせてくれた方、
皆さん親戚のように我々を歓待して下さった。墓標を断崖上に立てた時、慰霊碑を建立した時、進んで協力して下さった方々、涙の出るほど嬉しかった。それにも拘らず、我々にお返し出来ることがあまりに少なかったことをお詫び申し上げると共に満腔の感謝の意を表します。テニアン市長を始め現地の方々、本当に本当に有り難う御座いました。これからも厄介をお掛けすることと思いますが何卒ご宥恕のほどお願い申し上げます。
 現在テニアンで果樹園を経営しマリアナ政府の要人としても活躍されておられる平野欽也様には慰霊碑建立に際して土地の交渉や建立の許可申請等、我々の為に奔走して下さり、その御尽力には只々頭の下がるばかりで御礼の申し上げようも御座いません。
 未だ四十代後半の戦争を知らない世代であり、遺族ということでもないにもかかわらず戦争に関心を持ち研究もされ、テニアンにも何度も渡り、私の「死の島テニアン」の出版に際して並々ならぬ御協力を頂いた福島県伊達町在住の野田利勝様、同じく何度もテニアンにお参りされ、私共の慰霊碑建立に際し多大な御支援を頂いた安斉節子様、ここに御厚情を感謝し厚く御礼申し上げます。
 毎回のように老体をおして慰霊団に御同行頂き、懇ろな供養をして頂いた正観寺住職、桑久保光尊師、心より御礼を申し上げます。
 慰霊団に参加され、暑熱の中「平和観音讃仰和讃」を連日のように斉唱して下さった次の方々、昭和六十三年度の小高フサ様、鈴木千枝様、長峰ハマ様、間庭良子様、桑久保利子様、相良トシ様、平成三年度の伊藤満喜様、山内セツ様、平成四年度の鈴木千枝様、伊藤イチ様、加藤チカエ様、小沼いよ様、本当に有り難う御座いました。戦友もさぞ喜んで呉れたことと思います。
 慰霊碑建立に際し、我々の微志をお汲み取り頂き、材料費のみの廉価にて制作して頂いた藤田石材店様、厚く御礼申し上げます。
 テニアン慰霊を紹介し、世間の関心を高めて下さった新聞社、テレビ局の方々の御厚意に深甚なる謝意を申し上げます。
 慰霊旅行に際し我々の趣意を汲み取られ、種々御協力を頂いた名鉄観光様、近畿日本ツーリスト様、大変お世話になりました。厚く御礼申し上げます。
 慰霊団に参加された御遺族の方々には我々主催者の不慣れ、不手際により御迷惑もお掛けし、御不満な点も多かっただろうと存じます。何卒御寛恕のほどお願い申し上げます。


資料

 ○テニアン島の守り

・陸軍の主力 歩兵第五十連隊   織方敬志大佐以下二千八百名
       歩兵第百三十五連隊の一部と増員隊
                            陸軍部隊合計   約四千名

・海軍の主力 第五十六警備隊   大家悟一大佐以下千三百四十名
       海軍航空隊     第一航空艦隊司令長官
                 角田覚治中将以下約三千名
                            海軍部隊合計 約四千参百名

・民間邦人  約一万五千名

・主装備
  十五糎海岸砲       六門
  三年式十二糎海岸砲  六門
  高角砲           十四門
  二十五粍二連装機銃    二十四門
  陸軍山砲・速射砲      相当数
  戦車             十両

 ○海軍第五十六警備隊編成(暗号名:ウ二一、ウ三三九)

 総兵員 大家悟一海軍大佐以下千三百四十名

 ・本部兵員百十名

 ・小川隊・ペペノゴル砲台(小川隊本部・戦闘指揮所)
   砲  台  長   小川和吉海軍大尉(小川隊隊長)
   先 任 伍 長   中村春一上曹
   兵     員   七十名
   主  装  備   アン式十五糎海岸砲三門

 ・小川隊・二本ヤシ柴田砲台
   砲  台  長   柴田卯助海軍中尉
   先 任 伍 長   吉野悌二上曹
   兵     員   七十名
   主  装  備   アン式十五糎海岸砲三門

 ・小川隊・アシーガ沼田砲台
   砲  台  長   沼田正明海軍中尉
   先 任 伍 長
   兵     員   六十名
   主  装  備   三年式十二糎海岸砲三門

 ・及川隊・新湊砲台
   砲  台  長   及川末吉海軍中尉
   先 任 伍 長   森下正一上曹
   兵     員   五十六名
   主  装  備   三年式十二糎海岸砲三門

 ・芳賀隊・工作隊(金工、木工、運輸)
   隊     長   芳賀新作海軍大尉
   先 任 伍 長   今井喜三上曹
   兵     員   約五十名
   装     備   ダイハツ(大型発動艇)、トラック

 ・田中隊・カロリナス砲台(八十三防空隊)
   砲  台  長   田中明季海軍大尉
   先 任 伍 長   千葉菊治郎上曹
   兵     員   百二十三名
   主  装  備   十二糎高角砲四門
             二十五粍二連装高射機関銃十数門

 ・田中砲台(八十二防空隊・第一飛行場及び第二飛行場付近の防備)
   砲  台  長   田中吉太郎海軍大尉
   先 任 伍 長   不詳
   兵     員   二百名
   主  装  備   十二糎高角砲十門
             二十五粍二連装高射機関銃十数門

 ・佐藤隊
   隊     長   佐藤幸助海軍特務大尉
   副     長   新宅数馬海軍少尉
   分  隊  士   池田海軍兵曹長
      〃      山本海軍兵曹長
      〃      屋代海軍兵曹長
   先 任 伍 長   坂田海軍上等兵曹


 ○テニアン島 海軍第五十六警備隊将校上級下士官名一覧表

 司    令(海兵卆)海軍大佐 大家 悟一   海軍兵曹長 佐藤 健雄
 副 司 令(海兵卆)海軍大尉 小杉 敬三   海軍兵曹長 臼井富士作
          海軍特務大尉 小川 和吉   海軍兵曹長 成毛  ?
          海軍特務大尉 佐藤 幸助   海軍兵曹長 管  清蔵
          海軍大尉 芳賀 新作   海軍兵曹長 国井 武雄
           海軍大尉 田中 明秀   海軍兵曹長 藤田 藤助
           海軍大尉 田中吉太郎   海軍兵曹長 須藤 一男
      (海兵卆)海軍中尉 柴田 卯助   海軍兵曹長 並木  満
      (海兵卆)海軍中尉 佐竹  ?   海軍兵曹長 高木 利雄
           海軍中尉 及川 末吉   海軍兵曹長 門馬  事
           海軍中尉 山倉 巳未   海軍兵曹長 増渕  正
           海軍中尉 沼田 正明   海軍兵曹長 佐藤 善松
           海軍中尉 池田 三良   海軍兵曹長 斉藤 鉄男
           海軍中尉 日下 春美   海軍兵曹長 天野 稲光
           海軍中尉 郡司 政雄   海軍兵曹長 久保  留
           海軍中尉 秋山 武雄   海軍兵曹長 村上富之丞
           海軍少尉 新宅 数馬   海軍兵曹長 高橋 正雄
          海軍兵曹長 中野 義雄   海軍兵曹長 池田  ?
          海軍兵曹長 山下鉄太郎   海軍兵曹長 山本  ?
          海軍兵曹長 石黒末太郎   海軍兵曹長 屋代  ?
          海軍兵曹長 佐藤 久男    上等兵曹 吉野 悌二
          海軍兵曹長 橋本宗一郎    上等兵曹 木島新治郎
          海軍兵曹長 桑原 幸三    上等兵曹 今井 喜三
          海軍兵曹長 宮林 治郎    上等兵曹 間後  清
          海軍兵曹長 多田  盛    上等兵曹 橋本 太一
           上等兵曹 飯田  榮    上等兵曹 杉本 春雄
           上等兵曹 茂田井千代平   上等兵曹 山本 武夫
           上等兵曹 岩間 成海    上等兵曹 佐藤 義春
           上等兵曹 鈴木  猛    上等兵曹 斉藤 忠男
           上等兵曹 渡辺 宗重    上等兵曹 鈴木賢一郎
           上等兵曹 坂本春五郎    上等兵曹 知念  興
           上等兵曹 田中  操    上等兵曹 櫻井 波二
           上等兵曹 高山  龍    上等兵曹 遠藤 金吾
           上等兵曹 小栗 金蔵    上等兵曹 秋野平五郎
           上等兵曹 佐藤 義一    上等兵曹 須之内恒次
           上等兵曹 高橋喜平治    上等兵曹 千葉菊治郎
         古参上等兵曹 中村 春一    上等兵曹 坂田  ?
 以下一等兵曹、二等兵曹多数以上の兵員の一部と兵機がロタ島に派遣されたらしく

 ○第一航空艦隊編成

 第一航空艦隊司令長官角田覚治海軍中将以下二百名が本部要員としてハゴイの第一飛行場近くに鉄筋コンクリートの頑丈な二階建ての本部司令部にて各航空部隊の指揮を取って居た本部は、直下のワシ部隊なれど昭和十九年初めに使用し得る飛行機は持たなかった。

 ・三二一 空の部
   海軍中佐 久保徳太郎を司令とし、トビ部隊を編成。夜戦用戦闘機月光なり。

 ・五二三 空の部
   海軍中佐 和田鉄二郎を司令とし、タカ部隊を編成。テニアン西部カーヒーの第二飛
  行場を使用、最初は三二一空のトビ部隊と同一飛行場を使用しタカ部隊の主力戦闘機は
  彗星艦爆なり。

 ・龍部隊の主力機は一式陸功なり。

 他のテニアン基地には

  一二一 空の部   海軍中佐 岩尾 正次
  三四三 空の部   海軍中佐 竹中 正雄
  七六一 空の部   海軍中佐 松本 真実
  一○二一空の部   海軍中佐 栗野原仁志
    空の部合計         四六○名

  航空艦隊通過者      約二00名
  二三航空戦隊関係    約四五0名
  その他、建設要員     約八00名

 右、以上の部隊に搭乗員と地上部隊員が昭和十八年夏より十九年春迄駐留したが、昭和十九年三月頃にトビの一部がヤップ島に進駐し、タカ部隊の一部がパラオのベリリウ島に進駐し、トラック諸島に米軍機の空襲時にテニアン基地に駐機した全機と搭乗員は米艦隊に勇躍突っ込み、機と運命を共にしテニアン基地に帰還せず。五二三空の鷹部隊は最初静岡の大井航空隊より三重航空隊へ、しばらくして改造の航空母艦に乗船、テニアン島に上陸。旧ソンソン国民学校を宿舎としてやがてカーヒーの第二飛行場へ、そこで鷹部隊の先任下士の猪塚三四五上等機関兵曹と戸室林三郎兵曹、松本兵曹、大杉昇他の兵にて中古の飛べない彗星二機を組み立て、なんとか苦労して飛べるようにしてサイパンの上陸米軍と米航空母艦に逆空襲を行った、鷹部隊の整備科の勇士も居たのだ。
 昭和十九年六月に入ると米機の空襲が連日行われ、サイパン南端より米軍の長距離砲が物凄い着弾にて地上にて動く物体は米軍機グラマンにて掃射され地上にての活動は危険な状態となってしまった。
 五二三空の鷹部隊の機関科員の植田常明一等機関兵は、昭和十九年二月末か三月初旬にテニアンに上陸、旧テニアン、ソンソンの国民学校を宿舎として後にカーヒー第二飛行場へ機関科の任務に付く十九年四月より、米軍機のテニアンへ対する、特に飛行場に対する空襲が激しく、テニアン全島の対空砲十二糎高角砲及び二連装高射機関銃が応戦し、勇ましく突っ込んで来る米機グラマンに命中し搭乗員の米空軍中尉か大尉が主翼を吹き飛ばされ、キビ畑に墜落寸前落下傘にて降下、付近の日本海軍に包囲され日本空軍部隊の指揮所に連行され尋問されたが、米将校はアメリカは必ず勝つと云い米機動部隊の様子等頑として口を割らず、夜間の小屋にて見張りの日本兵のすきを見て首を吊り自決をしてしまったのだ。米空軍パイロットにも筋金入りのアメリカ魂の持ち主も多勢居たのだ。遺体は植田氏や他の航空隊員により埋葬された。
 第一航空艦隊の本部も米軍機の物凄い空襲を受け、ラソ山の西側山腹の洞窟に最後の司令部を置き、昭和十九年七月の三十一日正午の第五十六警備隊の米戦車に肉弾突撃。八月の一日と二日に陸軍の残存隊員と海軍の航空隊が米戦車に向かい突撃、全滅したのである。(注・テニアンの航空隊の地上要員は、陸戦用の武器といえば単発の小銃を三名程にて一丁位しか持たず、後の兵は手榴弾一個づつ位持っての戦闘状況なり)
 角田司令長官と参謀達も皆カロリナス台上にて自決して果てた。
 ここに於いて我が海軍航空隊の精鋭の集団である第一航空艦隊の保有する飛行機の全部と飛行技術の指揮者と作戦の将校の全部を完全に失ってしまったのです。テニアンの飛行場全部と島の九割を占領されてからは、機械力によってハゴイの第一飛行場と第四飛行場を合わせる様にして巨大な四本の滑走路が出来上がり、この滑走路より四発の巨大なB二十九型爆撃機が発進し日本本土へ向かう。そして広島と長崎へ世界で初めて原子爆弾が投下され、日本が降伏したのだ。


        平和観音讃仰和讃       西条八十作詞 松本尊憲作曲

        嵐は過ぎてうるわしく 平和の空は輝けど
        呼び返すすべもなし  ああ戦にいたましく
        行けるみたまよ    さまようみたまよ

          われらは頼む観音の  やさしの救い大慈悲を
          祈りつつ慰めん    ああ国のためはかなくも
          逝けるみたまを     つみなきみたまを

            心の平和あらずして  地上に平和あるべきや
            いざ頼れひとすじに  この観音のみ姿は
            生あるゝ平和を    久遠の平和を


   趣意書(サイパン・テニアン慰霊団)

 謹んでサイパン・テニアン両島の戦没者の御冥福を御祈り申し上げます。
 サイパン・テニアン島の守備隊が玉砕して早四十八年目の夏も近く歳月の流れと共に戦争の悲惨な様相もしだいしだいに忘れ去られようとして居ります。多くの戦友が日本の太平洋の防波堤として散っていった御霊を御遺族の方々と共に尊い御霊を慰めるため、テニアンの生存者が両島の激戦地に於いて皆様方と心のこもった慰霊祭を行い度いと日夜考えて居ります、死にぞこないの一敗残兵でございます。
 幸に僧侶の参加も予定して居りますので意義のある慰霊行となるものと存じて居ります。
 テニアン警備隊本部(ウ二一、ウ三三九)大家吾一司令ほか約四百名の残存兵もカロリナス台上南端にて玉砕した時の生存者僅かに二名のみ、今回カロリナス台上の玉砕された場所も同じ八月二日に慰霊祭を執り行う予定です。
 現地に於いて当時の様子などお話を致し度いと思って居ります。幸い現地に入る許可も頂けるものと思って居りますので、是非カロリナス台上慰霊祭に参加戴き度くお願い申し上げます。
 皆様方御遺族の方々、一般の方々の心よりの御参加と御支援をお願い申し上げます。

 平成四年四月
             サイパン・テニアン慰霊団        世話人 相良智英


 米軍発表(テニアン島に於ける米軍の損害)


 ○テニアン港にて米駆逐艦ノルマン、スコット轟沈。死傷者多数。

 ○テニアン港にて米巡洋艦コロラドに日本軍海岸砲との撃ち合いにて二十二発命中。火災
  を起こし米側の大佐戦死。負傷者も多数。

 ○テニアン西海岸ウネハーブィ上陸時、十五名戦死。二百十五名負傷。

 ○テニアン地上戦に於ける米海兵隊の戦死者、カロリナス台上にて米第六海兵連隊イズレ
  イ大佐外数名。負傷者多数。

 ○米空軍グラマン十六機から十七機撃墜さる。搭乗員戦死。

追録

 第一航艦司令長官実娘青山文子様について

 青山文子様は日本海軍最強の軍団の第一航空艦隊の司令長官中将角田覚治の実娘にて司法官に嫁してからも亡父の影を求めテニアンに渡り一人でも現地案内人の車にて全島くまなく歩き毎年の様に亡き父君に戦没者の御霊にお参りされ現地の世話になった方に日本より自動車を送り大変喜ばれ又、感謝されたのだ。
 現地の方が筆者にも話して呉れました。
 青山文子様の夫君は後に司法官の責任ある長官として退職された。
 「現在は東京都町田市玉川学園二・四・九にお住まいなり」

 平野仰也氏について

 戦後日本とテニアン間の貢献について
 平野氏は昭和三十二年北海道大学大学院農業研究科を卒業後栃木県農林省試験場にて研究をされ後に協和発酵に入社。アルコール原料の肥料化に社の業績を上げ後に社が設立したテニアン島現地法人の社長として単身赴任し、テニアンにてサトウキビ栽培を始め約五百ヘクタール以上を開拓したが砂糖事情の暴落に依り親会社の撤退を決定すると平野氏は十年近くかかって開拓した畑や諸々が可愛くて親会社が用意した新しい重役のポストを断り単身常夏のテニアンに残り以後果樹園作りに精出し、作業員の賃金まで貯金を持ち出し奥様も呆れて「主人は天然記念物」と言う始末。氏は情熱を注入して果実のシシャップ、マンゴー、チコ、ジャックフルーツ等生産も軌道に乗りフィリピン大学の協力を得てキノコの栽培に取り組み、其の間日本政府の遺骨収集団や慰霊団の世話、慰霊碑の建立の設計から建立迄の種々の献身的な氏の努力によって、何時も真っ黒な顔、汗だらけゴムゾウリばき、作業服姿の神々らしいばかりの氏の姿に私共戦争経験者、特に生存者には頭の下がる思いで現在も生きて居る者です。
 氏は種々のテニアン島に於ける功績によりマリアナ州政府の天然資源局の幹部に登用された。氏は現在も南方方面の開拓、農作物造りに情熱を燃やす日本人の本当の姿が今も南方の島に見られるのだ。
 「氏の家の住所は神奈川県中郡大磯町東町一・六・二四 平野仰也」

 元五十六警副司令小杉敬三大尉の遺族について

 実弟 小杉英雄氏と
 実妹 結城せつ様
 山形県米沢市に居住の元五十六警副司令故小杉敬三大尉の実弟秀雄氏は兄の面影を求めてテニアンの野にジャングルに線香を手に夫人と共に精力的に巡拝を重ねられ、時に旧五十六警備隊司令部跡より遺品と思われる品を見つけ持ち帰り家にて故人兄の形見と思いお参りをかかさぬとの由なり。

 東京都板橋区常盤台二・十六・一にお住まいの元五十六警副司令小杉大尉の実妹結城せつ様は数度に亘りテニアンに巡拝し故人兄の面影を求め探し続ける姿神々しい限りにて家にては旧テニアン関係者、特に御遺族の方々や生存者を探し当時の戦況を聞き自分のものとし旧テニアン関係の書類の品々を集め保存し東京始め全国各地の方々と連係を取り合い世話をされて居る貴重な方なり。

 テニアン海軍第五十六警故佐藤奉助隊長遺子恒春氏のこと

 佐藤恒春氏は元海軍上等兵曹にてフィリピンにて壮烈な最後をとげた軍艦山城の元乗組員にて元軍港横須賀の波止場に建立された軍艦山城の慰霊碑建設の世話人として又建碑事務局を担当し、戦艦山城の戦没者一、六二三名の御霊を慰められた功労者にて、故人父君奉助特務大尉の戦死の地テニアン島での慰霊団の団長を毎年の様に務められ御夫妻にて毎回渡島して亡きテニアン島の戦没者の冥福を祈られる姿が南方常夏の地に見られるのです。


 岡田静枝様、故人実兄の遺品、テニアンより帰国

 昭和十九年六月十六日、福島県四倉郵便局より配達された小包の品々、その中に日本国旗二本(日の丸の寄書)と葉書一枚、郵便局の通帳と印鑑が入って居り、当時は留守宅の皆には太平洋の風雲急なる事は大体分かっては居れどもまさかテニアン島よりの小包とは知らずに居りましたが、後で戦後しばらくして暗号の文号が、ウの二一、ウ三三九の三二とはウ二一がサイパンの南雲中将の指揮下にウ三三九は大家大佐の五十六警備隊三二は佐藤大尉の隊と判明改めて実兄小林敬忠がテニアン島にて玉砕戦死との実感を強めたのでした。故人小林敬忠は横須賀海兵団にて海軍衛生兵の教育を受け後に館山海軍砲術学校に砲術関係の教育を受けた優秀な現役兵にて御冥福を祈るのみ。
 現在福島県浜通り地方には故人の実姉妹が健康で活躍して居られ実父も元地元の農業協同組合長等も何期も務め上げ戦時中は、福島県の配給統制委員もやり温厚徳実なる日本人の代表的な父君なり。
「注 この小包は昭和十九年六月中旬テニアン玉砕直前にテニアン飛行場より海軍の将校一人と郵便物を一機の内地向け飛行機に筆者が隊のトラックにて運び機に横付した記憶あり」

 町井貞子様実弟故人茂垣誠一海軍水兵長遺品アメリカ経由にて本籍地に届く

 テニアン島にて立派な戦死を遂げられた茂垣誠一水兵長が生前所持して居りました海軍用の印鑑ケースと兵籍判、氏名判、印鑑入、朱肉が昭和五十四年十月二十四日アメリカより本籍地の生家に届けられ遺族全員が戦死した故人が帰ったかの様に驚き現在でも大事に生家にて保管して居られます。この遺品は日米両軍が死闘を続け玉砕後米軍が日本軍の敗残兵の掃討時に洞窟等にて見つけ米本国に持ち帰った品々らしいのです。
「現在故人姉町井貞子は学校教員を終えられ、亡夫は元中学校長を務め上げられた方にて、町井貞子は現在老人会や各方面に活躍して居られ短歌等にも精通して居り遺品帰国に際して弟を偲び詠みました数首を左に記します。」


*1  玉砕・全滅を美化した言葉。
*2  皇軍・旧日本軍の別名。天皇の軍隊という意味。
*3  魚雷・爆弾の一種。魚型水雷。水面下を進み、艦船を攻撃する。潜水艦や航空機か
       ら発射される。
*4  赤紙・徴集令状。
*5  吊床・ハンモック。
*6  バッタ棒・棍棒。精神注入棒ともいった。新兵はこれで尻を打たれて鍛えられた。
*7  大和・第二次大戦当時、世界最大の戦艦だった。寮艦に・武蔵・がある。
*8  ドック・艦船の建造と修理、点検を行う施設。
*9  特殊潜行艇・前部に炸薬を搭載した小型潜水艦。人間の操縦する魚雷であった。
          ・回天・が有名。
*10 ジャンク・中国や香港などで多く見られる水上生活の船のこと。
*11 衣嚢・今日のリュックサック。
*12 内務班・軍隊の組織。平常時は内務班といい、戦地ではそのまま小隊となる。
*13 古参兵・兵歴の長い兵隊。軍隊では一日でも早く入隊した者が威張っており、その
        命令には絶対服従だった。
*14 駆逐艦・主に潜水艦を掃討する軍艦。爆弾を海中に投下して潜水艦を破壊した。船
        足が早かった。
*15 砲術隊・陸上や軍艦で大砲を操作する部隊。
*16 駆潜艇・潜水艦攻撃を任務とする小型舟艇。
*17 海岸要塞砲・対艦攻撃用の大砲。海岸に設けられ、コンクリート等で覆っていた。
*18 ダイハツ・大型発動艇の略。エンジンの付いた運搬用の船。
*19 グラマン・米軍の戦闘機。グラマン社の製造。
*20 雷管・火薬を発火させる装置。
*21 信管・爆弾、弾丸などを炸裂させる装置。
*22 アン式砲・日露戦争当時の旧式砲。
*23 砲鞍・砲身を乗せる台。
*24 巡洋艦・軍艦の一種。軽快、快速で後続距離が長い。戦艦に次ぐ火力を持つ。
*25 戦艦・軍艦の一種。最大の攻撃力、防御力を備え、艦隊の主力となる。戦闘艦。
*26 盲貫銃創・弾丸が体内に留まっている傷。(反)貫通銃創
*27 重機関銃・大型の機関銃。機関銃は引き金を引いている間、連続して弾が出る。
*28 重砲・大型の大砲。長距離砲。
*29 装甲・戦闘車両や戦闘艦の弾よけの為の外装。亀の甲羅に喩えた。
*30 バズーカ砲・ロケット式の対戦車砲。
*31 手榴弾・手で投げる小型の爆弾。
*32 空母・軍艦の一種。航空母艦の略。移動可能な洋上の航空基地。
*33 狙撃・狙い撃ち。出てくるのを待ち構えて銃撃する。
*34 リーフ・珊瑚で出来た岩礁。
*35 歩哨・見張り。
*36 自動小銃・鉄砲。一度に数発、発射できる。
*37 艦砲・軍艦の大砲。
*38 機動部隊・高速で行動する、空母を中心戦力とする遊撃部隊。
*39 艦載機・主に航空母艦に積まれた航空機。
*40 トーチカ・小型の砦。コンクリートやペトンで覆われ、銃砲撃用の窓が開いている。
*41 志願兵・大戦時、日本は徴兵制が布かれていたが、志願して兵隊になる者も居た。
*42 軍医・軍隊に所属する医者。将校待遇で階級もあった。
*43 高角砲・航空機を射撃する海軍の大砲。陸軍では高射砲と言う。
*44 高射機関銃・航空機射撃用の機関銃。高射機関砲とも言う。
*45 探照灯・サーチライト。
*46 海防艦・海岸の防備を任務とする軍艦。
*47 肉弾攻撃・爆弾を抱いての体当たり攻撃。
*48 軍属・軍隊に所属するが、軍人ではない。
*49 工兵・陸軍の兵科の一つ。道路や橋、要塞などを建設または破壊する。
*50 抑留・捕虜として留め置かれること。
*51 護衛艦・輸送船や戦艦、航空母艦などを護衛する軍艦。駆逐艦、駆潜艇等。
*52 援護射撃・味方の前進を助ける為、後方、あるいは側方から敵を攻撃する事。
*53 ナパーム弾・焼夷弾、火炎爆弾。ガソリン等の油脂を詰めた爆弾で、建造物や人間
          を焼き尽くす。
*54 山砲・山岳戦で使用する大砲。
*55 速射砲・一分間に六、七発以上発射可能な砲。移動が自由で至近距離から発射でき
        る。
*56 隣組・政府の要請でつくられた相互扶助、監視組織。数件の家で構成する。
*57 有線隊・軍隊の一組織。電話の設置、保守を任務とする。
*58 爆雷・爆弾の一種。海中で爆発させ、潜水艦を破壊する。水雷とも言う。
*59 戦車破壊隊・爆弾を抱いて戦車の下にもぐり込み、我が身諸共破壊する。肉弾攻撃。
*60 斥候・戦場で敵情を探ること。物見。偵察

   テニアン玉砕五十回忌を忌念して
     皆様に御謹読を御願い申し上げます
                   

○著 者   連絡先  hswmag@yahoo.co.jp

 発   行        1994年3月
 第二刷改版       1994年12月
 第三刷改版、保存版 1997年3月
 複写版          2000年3月
 インターネット版    2001年2月
 第四刷改版       2005年6月
 インターネット改訂版 2010年11月
 インターネット移行版 2013年4月


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